2017年4月3日月曜日

続・文在寅回想録――ルーツは北の地域/朝鮮戦争で南に避難

韓国の野党「共に民主党」の大統領選候補に決まった文在寅(ムン・ジェイン)氏(64)についてこれまでその回顧録『運命』(2011年、ソウルで出版)の一部を拙訳で紹介してきた。弁護士時代のことが中心だったのだが、読んでいただいた方から「ほかの部分も…」という声が届いた。

たしかに、興味深い部分はほかにも多い。というわけで、弁護士時代のことはいったん打ち切り、他に目を引いた部分を抄訳してみたい。まずは、彼のルーツと生い立ちから――。
 
■「興南撤収」で故郷離れる
私の父母の故郷は、咸鏡南道興南である。わが一族は何代にもわたり興南で暮らしていた。そこには文氏だけが住む村があるほど、親戚が集住していたという。
 
文氏の村は松林に囲まれ、「マツ林の中の村」と呼ばれていた。そう言えば、近隣ではだれにでも分かったという。そんな村で、平和に暮らしていた父母や親戚の幸せな日々は戦争によって終止符が打たれることとなった。
 
父母は195012月の「興南撤収」[*]で故郷を離れた。
 
[*興南は、北朝鮮区域の咸興湾に面した港湾・化学工業都市。「興南撤収」とは朝鮮戦争時、中国人民解放軍部隊の参戦に伴って行われた国連軍の撤収作戦のこと。東部戦線で北進していた米軍第10軍団と韓国軍第1軍団が押し戻され、1950121524日、興南港から米艦船に避難民らも載せて撤収した。韓国で2014年に制作された映画「国際市場」<日本語字幕版「国際市場で逢いましょう」>はこの興南撤収を扱い、韓国社会に大きな反響を呼んだ。http://kokusaiichiba.jp/
 
まだ乳飲み子だった姉を背負い、南に避難してきた。韓国軍と米軍が豆満江まで北進して行ったさい、予想もしない中国軍の介入によって退却を余儀なくされたのだ。その時は、いずれ、戦列さえ整えばすぐに失地回復できるとみていたという。
 
それで、老人たちはそのまま残し、若い者だけでしばらく避難しようと故郷を離れた人が多かった。わが家も祖父母は残った。父は、祖父母の生死すら分からないまま亡くなった。後になって祖父母は死んだということを聞いたが、いつ亡くなったのか、正確な時期はいまも分からないままだ。
 
■着いた先は巨済島
避難は米軍のLST(兵力や戦車を上陸させる軍用艦艇)でなされた。しかし、実際のところその当時、避難民らは米軍が自分たちをどこに連れていこうとしているのかさえ分からなかった。
 
23日、船倉での生活だった。米軍の統制が緩んださいに、はしごで甲板に上がり外を眺めることができた。その時、近くの陸地から光が見え、そこが浦項だと聞かされた。それで、行く先が南海岸地域だと推測できた。
 
途中、クリスマスだといって米軍がドロップを何粒か分けてくれたりもした。米軍が連れて行ってくれたところは慶尚南道の巨済島だった。そこには臨時に避難民収容所が設けられていた。
 
興南を出るさい、辺り一面が白い雪一色に覆われていた。それが、巨済島に着くと、すべてが緑色だった。母はそのことが不思議でならなかったという。常緑樹と青い麦畑が故郷の風景とあまりにも違っていたのだった。「ここは本当に暖かい南の国なんだな」というのが巨済島についての母の第一印象だった。
 
冬というのに故郷と比べてずいぶんと暖かい気候と併せ、島の人たちの豊かな人情が何の準備もなくやってきた避難民をやさしく包み込んでくれた。鍋、釜といった炊事道具や食べ物を分けてくれ、避難生活を始めるうえでの困難を乗り切れるよう支援してくれた。
 
のちのち、各地に散らばった家族が一堂に会した時など、避難生活時代の思い出話をしているのを聞くことがあった。そんな時は巨済島の人たちの温かな人情についての話が多かった。「これが仮に、南の人たちが興南に避難してきたとしたら、同じようにしてあげられただろうか」といった話もしていた。
 
巨済島に来た興南の避難民は島民の恩が忘れられず、「恩返し運動」をしたりもした。興南市民会とか、避難民のなかでのちに成功した人の中には個人的に巨済島の学校に奨学金を贈る人もいた。
 
■何の縁故もなく…
避難する際、父と母は23週間程度と考えて故郷を出たという。だから、それこそ赤手空拳、何も持たずに故郷を出たのだった。そして、何の縁故もない見知らぬ土地で、ろくな準備もないままに新しい生活を始めたのだった。なんの足掛かりや寄る辺もない暮らしだった。
 
父の方はそれでも近い親族がいっしょに避難してきていたが、母方のほうはだれもいっしょに来ることができなかった。母方の村は興南の北を流れる城川江を渡ってすぐのところだったが、興南との間を結ぶ橋が米軍によって通行止めにされたためだった。
 
朝鮮戦争時の「興南撤収」について書いたものを読んだことがある。それによると、撤収を前にしてとどめようもなく殺到する避難民を制限するためと、避難民に紛れて浸透する敵を防ぐためにそのような措置をとったのだという。
 
いずれにしても、母は南の地では、まったくの孤独だった。避難生活があまりにも辛く、しんどく、どこかへ逃げ出したくなったときもあったが、ほかに頼るところもなく、逃げることさえできなかったのだ、と冗談めかして話したりもした。
 
■避難生活中に生まれる
私はその巨済島で、そんな避難生活をしているときに生まれた。田舎家の一間に3人で暮らしていた時だった。たまたま家主のおばさんも同時期に妊娠していたおかげで、出産時、母は一時的に借りた別の家で私を産んだのだという。同じ家の中で2人の赤ん坊がいっしょに生まれるのはよくない、という迷信があったからだった。
 
わが一族の中では私が最初の男の子だったので、みんなが喜び、祝福されるなかでの出生だった。
 
のちに母が還暦を迎えたとき、母を連れて私が生まれた場所をはじめ、父と母が避難生活をしていた界隈を見て回ったことがある。30年の歳月が流れていたというのに、母は住んでいた地区や家のことをすべて覚えていた。母と同じ年ごろか、母より年配のおばあさんたちも母のことを覚えており、だれもが昔呼んでいたとおりの名で呼び、お互いに喜び合うのだった。
 
父は(巨済島にあった)捕虜収容所で労務者として働いた。母は島内で鶏卵を安く仕入れ、釜山へ売りに行く行商をしていた。鶏卵を頭の上に載せ、私をおぶったまま海を渡って釜山へ行ったのだった。
 
■小学校入学を機に釜山へ
それで少しずつお金を貯め、すこし貯まったところで私が小学校に入るちょっと前に釜山の影島に引っ越した。引っ越しの機会をうかがっていて、私が小学校に入る機をとらえて実行したのだった。
 
引っ越しのときのことが記憶に残っている。大きな船から降り、黄色いアワの穂が頭を垂れた畑の横を通って、引っ越し先の家に着いたのだった。当時の影島は、行政区の上でこそ釜山市だったが、まだ、田畑の多い農村地帯だった。
 
巨済島は私の生まれたところだが、幼い時に離れてしまったのでとくに記憶として残っていることはない。いっしょに避難してきた一族もほぼ同じころに巨済島を離れ、縁故も残っていない。
 
それでも私にとっては生まれ故郷であり、父母が避難生活をしたところなので、いつも切なく思い出される。(盧武鉉政権時代に大統領秘書室長などとして)青瓦台にいるとき、私がそれでも巨済の出身だというので巨済地域の懸案について支援要請があったりすると、いつも神経を使っていたものだ。

 
 

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