2017年3月9日木曜日

文在寅回顧録②――盧武鉉・文在寅合同法律事務所

■同じ世界に住む人
盧武鉉弁護士の事務所は、裁判所や検察庁近くの釜山・富民洞にあった。地味というより、すこし見ずぼらしい建物だった。裁判所の正門の方ではなく、後門の側だった。事務所内はけっこう広かった。

そこで盧武鉉氏と初めて会った。その出会いが、私の生涯の運命と結びついていくことになろうとは想像すらできなかった。初めて見る盧武鉉弁護士は若かった。1978年に開業していたのだが、私が参入するまで釜山で最も年が若く、司法修習の期数も若い弁護士だった。印象からして違っていた。

もちろん、その時の私はそう多くの法曹人を知っていたわけではない。しかし、司法研修所に入ってから会った研修所の教授(裁判官、検事)や、高校・大学が同窓の法曹人のつどいで会った先輩たち、さらには弁護士試補を経るなかで会った人たちとは雰囲気がまるで違っていた。

当時、弁護士と言えば、みな、裁判官や検事をけっこう長い間つとめた人たちだった。ほとんどが権威的な雰囲気で、しゃべり方にも威厳を漂わせていた。しかし盧武鉉弁護士は裁判官生活が短かったからなのか、あるいはもともとそういう気質なのか、雰囲気がまったく違っていた。非常に気さく、率直で、親しみを感じさせた。

すぐに同じ仲間というか、私と同じ世界に住む人、という感じを抱いた。

■運命の出会い
一杯のお茶を前に、ずいぶんといろいろなことを話したと記憶している。私が学生時代にデモで捕まり、大学を除籍されたという話。そのために裁判官に任用されなかったという話……。

盧武鉉弁護士は自身が弁論した「釜林(プリム)事件」(*)の経験を語りながら、私が裁判官に任用されなかったことに対して心底、いっしょに怒ってくれた。そして自らの夢を語った。人権弁護士としてどうこうしようという話ではなく、きれいな弁護士になりたい、という話だった。

(*1981年に発足した全斗煥政権初期、釜山地域で起きた最大の容共捏造事件。政権が統治基盤を固めるために民主化運動を弾圧し、でっち上げた。同年9月、社会科学読書会を開いた善良な学生、教師、会社員らを令状なしに逮捕し、2063日間にわたって監禁。殴打はもとより、「水拷問」など殺人的な拷問を加えた。同年7月、ソウル地域の活動家学生たちが一斉に拘束された「学林[大学]事件」に続いて起きたことから「釜山の学林事件」という意味で「釜林事件」と呼ばれた)

「きれいな弁護士」といっても、言うほどには簡単ではないと盧武鉉弁護士は告白した。私といっしょに仕事をするようになったら、それを機にお互い、きれいな弁護士になってみようと話した。あたたかな気持ちが心を打った。

業務を専門化し事務所を立派なものにしていきたい、というビジョンも語った。ソウルの法律事務所で示されたような誘惑的な提案は何もなかった。しかし、心が引かれた。その日のうちに、いっしょに仕事をすることに決めた。

事務所内を見回してみた。すべての準備が整っていた。私は身一つで入り込めばよかった。「弁護士 盧武鉉・文在寅合同法律事務所」。私の弁護士人生が始まった。同時に、それは生涯にわたって続く盧武鉉氏との運命的な出会いの瞬間だった。

■先輩であって、親友のように
盧武鉉弁護士は私に気安く接してくれた。私のことを「親友」と呼んでくれたが、それは実質を伴ったものではなかった。いきさつというのは、こうだ。

2002年、盧武鉉氏が大統領選挙に出馬したさい、私は釜山の選挙対策本部長を引き受けた。その選対本部の発足式に当たり、盧武鉉候補は演説の中で、私の紹介にあたって次のような言い方をした。

「人はその親友を見ればどんな人間か分かるというではないですか。盧武鉉の親友文在寅でなく、文在寅の親友の盧武鉉です」と。選対本部長という柄でもない役目を引き受けた後輩の私に対し、感謝の気持ちも込めてそのような言い方をしたのだった。

実際のところは、盧武鉉弁護士とは6歳の年齢差があった。司法試験合格年度も5年上なのだから盧武鉉氏は私の大先輩である。ところが、そうした紹介の言葉のおかげで私はいまでも、過分にも「盧武鉉の親友」という呼ばれ方をしているのである。

盧武鉉弁護士は私のことをずいぶんと尊重してくれた。私に対していつも尊敬語を使った。少しなりとも普通の言葉を使うようになったのは、そのあと青瓦台[大統領府]に入ってからだった。

それまでは礼儀正しい尊敬語で接してくれた。私も普通は、「兄貴」といったぐらいの言葉遣いをする性格なのだが、盧武鉉氏に対しては「先輩」という以上に、「兄貴」という言い方まではできなかった。

■仕事は対等に
盧武鉉弁護士の私に対する態度は、そう生易しいものではなかった。まず、盧武鉉氏はそれまでに裁判官をやり、弁護士も何年か経験していた。弁護士業界で相当な基盤を固め、経綸も積んでいた。

一方の私はといえば、司法研修所を終えたばかりで、まったくの初心者だった。そんな私と収入を同等に分け合う条件で事務所をいっしょに開くというのはなかなか考えらえないことだった。

弁護士の協業のむずかしさは互いのスタイルの違いからくることもある。しかしまず、互いの力量を信頼し合わなければならない。たとえば、どちらが顧客と契約しても仕事をうまく分け合う必要がある。業務分担のうえでも信頼は欠かせない。信頼がなければ協業はできない。

先輩の盧武鉉弁護士は私よりよく仕事をするように思えた。盧武鉉氏も私のことを不安に思っていたに違いない。しかし、それでも信頼してくれた。

時局事件の場合も重要なものは共同で弁護人を引き受けることが多かった。その時どきのお互いの仕事量によって主任となる方を決めた。私が中心になることも多かった。そのような時も、盧武鉉氏は私のやり方にそのまま共感してくれた。ただの一度も、私がやろうとする方向に異論を唱えたことはなかった。大変な信頼と尊重で対応していただいたのだった。

考えてみると、おかげで非常に安定したかたちで弁護士生活を始めることができた。何といっても初めて弁護士をやろうというのに、開業費用の調達からして心配する必要がなかったのである。

■家族的雰囲気
住まいも盧武鉉氏と同じアパート団地だった。もちろん先に基盤を固めていた盧武鉉氏は少し広い部屋に住んでいた。私は狭い部屋だったが、気安く、心を開いて付き合った。お宅へしょっちゅう遊びに行った。盧武鉉氏の故郷の烽火(ポンファ)村へついて行ったりした。

弁護士事務所の全職員で年に2度ほど家族連れでピクニックに行ったりもした。家族的な雰囲気だった。盧武鉉弁護士はそんなに酒に強いほうではなかったが、ときどき酒席も持ち、たのしい時間を過ごしたりもした。

 

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