2017年3月22日水曜日

文在寅回想録④――身を律し、正義を求め…

■「反公害」を名目に…
いろいろな時局事件をほぼ一手に引き受け、地域の在野の人たちとも近しくなった。当時、釜山の在野勢力を率いていたのは宋基寅神父と、いまは亡き釜山中部教会のチェ・ソンムク(최성묵)牧師だった。

小説家のキム・ジョンハン(김정한)さんは年老いておられたが、いつも私たちを励ましてくれ、いざという時には直接前面に出てくれたりもする精神的な支柱だった。これらの人たちを中心に1984年ごろから在野の民主化運動団体や人権団体が復活し始めた。釈放された釜林事件のメンバーらが主に実務面を担当した。

84年に最初に復活した在野民主化運動団体が公害問題研究所釜山支部だった。チョン・ホギョン(정호경)神父が理事長となり、チェ・ヨル(최열)さんが実務面をきりもりした。

名前こそ公害問題研究所の支部としたが、実際のところ、そちらのほうと関係があったわけではない。当時はまだ民主化運動を直接標榜するのが怖かった時期で、遠回しに反公害団体としたのだった。もちろん、釜山の在野の人たちをほとんど網羅していた。宋基寅神父が代表になった。

最初、私はまず、発起人として参加した。正式に発足するにあたっては盧武鉉弁護士もいっしょに加わった。共に理事として、だった。

■民主化運動組織を設立
85年、釜山民主市民協議会(略称・釜民協)が設立された。ソウルの民闘連と同じ性格のものだった。釜山のすべての在野勢力を網羅する組織だった。釜山の民主化運動の求心組織ができたのである。のちに、87年の「6月抗争」(*)をリードした国民運動本部も釜民協が中心となった。釜民協の代表も宋基寅神父が引き受けてくれた。

(*876月、韓国全土で起きた民主化運動。「610民主抗争」ともいう。当時の全斗煥軍事独裁政権が民主化運動を抑圧し長期政権を画策するなか、ソウル大生朴鍾哲君が拷問で死亡。この事件が発端となり、全斗煥とともに軍事クーデターの主役だった盧泰愚が与党の次期大統領候補に選ばれたことで国民の怒りが爆発。約半月間に全国で500万人以上がデモに加わった)

弾圧を覚悟しなければならない時期だった。「31運動」[*]にならい33人が悲壮な決意で代表発起人になった。私は盧武鉉弁護士といっしょに初めからその発起人に加わった。あとで常任委員にもなった。盧武鉉弁護士は労働分科会の委員長になり、私も民生分科会の委員長を引き受けた。

[*191931日、日本支配下のソウルで口火を切った反日独立運動。33人が独立宣言書に署名。運動は朝鮮半島全土に広がった]

これによって私たち2人はともに在野運動に深く足を踏み入れることとなった。盧武鉉弁護士も私もプロテスタントの信者ではなかったが、のちにつくられた釜山NCC(キリスト教会協議会)人権委員会の委員にもなった。人数が限られていたので民主化運動団体や人権団体にあまねく関わらざるを得なかった。弁護士としての義務であり、使命だと考えた。

■押し寄せた人権事件
時局事件についても同じだった。支援が必要な仕事は断れなかった。釜山に来るにあたり、「ぜひとも人権弁護士になってやろう」という目標を立てたことなど、いちどもなかった。

盧武鉉弁護士に初めて会ったときもそのようなことを言った。「人権弁護士になろうというようなことを目標にしているわけではありません。しかし、そのような事件が来る場合には避けて通ることもないでしょう」と。

その通りにやっただけだ。ほかにやる弁護士がいなかったのでいちど引き受けると、堰を切ったため池の水のように事件が押し寄せてきた。どうしようもなかった。

私と盧武鉉大統領で別々に引き受けることもあったが、すこし重要な事件はいっしょにやった。被告が何人もいる時局事件は被告人ごとに分担した。2人が並んで法廷に立つことも多かった。盧武鉉弁護士と私は、気質や性格の面よりは事件に取り組む姿勢や態度がよく似通っていた。

在野団体にもほとんどの場合、いっしょに加わった。団体内の役割を分担したが、私一人で関わる分野も一つだけあった。カトリック教系の運動団体だった。天主教社会運動協議会、天主教正義具現全国連合、天主教人権委員会、天主教正義平和委員会などだった。

私がカトリックの信者だからだった。実際、信者になってずいぶんになるが、信心が篤いとはいえず、聖堂にもあまり行かないのに、カトリック系団体で職責を担うというのは決まりが悪くもあった。

しかし、弁護士の助力がぜひとも必要だ、というのを断るわけにはいかなかった。そんな因縁から、篤実な信者でもないのに、のちに(盧武鉉政権で)青瓦台にいた時はカトリックとの窓口役をつとめた。金寿煥枢機卿とも何度かお会いし、あいさつを交わした。盧武鉉政権時代、枢機卿が2人に増えたのだが、その際、盧武鉉大統領の親書をバチカンに送るにあたって橋渡し役もした。

■収入の少ない弁護士
労働・人権弁護士の道を歩んだ結果、お金が儲かる弁護士にはなれなかった。私としては元もと覚悟のうえのことだった。初めからそういうものとしてやってきた。妻も、司法試験に合格して弁護士になってくれただけでありがたいといい、協力してくれた。

しかし一時、収入が多かった盧武鉉弁護士には容易なことではなかったと思われる。収入が減った分、生活費を減らさなければならなかったのだから、誰よりも夫人、権良淑女史の気苦労は大変だっただろう。

しかし、そんなことは平気のようだった。盧武鉉弁護士は一時期、専ら労働事件だけを引き受け、月200万ウォンだけでやっていたこともあった[*]。

[*韓国の法曹界に詳しい関係者によると、当時、韓国の弁護士は少ない人でも月700万ウォン程度の収入はあったという]。

時局事件と在野民主化運動をするなかで盧武鉉弁護士と私は2つのことに特別に神経をつかった。

■身辺をきれいに
一つは、自らがきれいであらねばならない、ということだった。当時、独裁権力がしばしば使った手についてはよく分かっていた。不正や弱点を探し出して脅したり、身動きができないようにしたりするやり方だ。

脱税や私生活面の不正などを内密に掘り起こして恥さらしにするようなことは朝飯前だった。一歩間違えれば身を滅ぼし、民主化運動にも累を及ぼしかねなかった。大義と良心に背くことがないよう節制し、注意を払った。

些細なことではコミッションをなくすことからはじめ、税務申告も徹底した。私生活も、それなりに厳しく律しようと努力した。

とくに盧武鉉弁護士は熱情にあふれ、まるで初めて運動に飛び込んだ学生のようだった。献身的だった。自らの生活自体を民衆的なものに変えようと努力していた。食事も高いものはものは食べず、酒も高価なものは避けた。

好きなヨットもやめた。口だけで「民衆」を叫ぶ偽善を嫌った。それほど純粋で、徹底していた。ともかく、生き方そのものを道徳的なものにかえようと努力していた。

そのようなことで、私はゴルフを始められなかった。当時、ゴルフ場建設に強く反対する環境運動家に同調していて、その一方でゴルフをするのは許されないと考えたからだ。その後、ゴルフが大衆化し、否定的な考えはなくなったが、こんどは時間的な余裕がなくなっていた。

■「爆弾酒」を断つ
酒についても同じことだ。洋酒やワインよりも焼酎やマッコリの方が合っている。酒席は一次会で終え、できるだけ「爆弾酒」[*]も飲まないようにした。「民衆」を口にする者が言葉と外れた行動をするのはよくないと考え、自分なりに決心した。

[*ビールをウィスキーや焼酎で割ったカクテル。韓国軍内で始まったともいわれる]

爆弾酒をやめたのには別の理由もある。釜民協が設立された、その年の暮れごろ、釜民協の関係者が安企部釜山分室の人たちといっしょに酒を飲むことになった。安企部の方から一度やろうと誘いがあり、準備された席だった。わが方は私をはじめ、神父、牧師らで、向こうは分室長ほか在野担当、宗教担当、法曹担当らだった。

お互い談笑したが、心を開き合う席にはならなかった。焼酎を飲むだけ飲んだところで終えようとしたのだが、陸士14期出身という分室長が爆弾酒を一杯やろうと言うのだった。当時はまだ、爆弾酒というものが一般に知られるようになる前のことで、わが方の人たちはみな、初めてだった。

分室長が要領を説明し、模範を示した後、グラスを回した。何杯か回ると、全員ぶっ倒れ、結局、分室長と私の2人だけが残った。私もずいぶんと酔っぱらったが、負けまいと必死に耐えていた。

10杯ほど飲んだ時、分室長がトイレへ行くというので私もいっしょについて行ったのだが、そこでおかしくも大変な光景を見てしまった。分室長は用をたすのではなく、鏡の前で自身の両頬をぴしゃりぴしゃりと大きな音を立てて叩いていたのだ。

彼もまた、負けまいと精一杯の努力をしていたのである。そこで酒の席は終わった。しかし誰彼を問わず、無理やり飲むことを強いる画一的な軍隊式飲酒文化のありさまを直に目撃してしまったというわけだった。

■法廷内の慣行正す
二つ目は、時局事件にあっても、ただ弁論するだけでなく、捜査から裁判手続きまでのすべてを刑事訴訟法の規定通りに貫徹しようと努力したということだ。時局事件法廷だからこそ刑事訴訟法の手続きが完璧に守られるべきだと思った。

大学生の時局事犯の裁判はことさらそうだった。彼らの裁判で法手続きを守らずして既成世代はどうして彼らをとがめることができるというのか。

私が弁護士を開業したころは刑事訴訟法から外れた法廷内の慣行が多かった。被告人は立たせて裁判をするのが基本だった。捕縄でしばり、手錠をはめたままで裁判するのは茶飯事だった。

それに対して一つひとつ条文を示してたてつき、正すよう裁判長に求めた。「手錠を外してください」「捕縄を解いてください」「椅子を準備し、座らせてあげてください」と。

刑事裁判の間違った慣行が一つひとつ直されていった。時局事件の被告人が裁判を受ける間、捕縄や手錠から自由になると、代わりに刑務官が左右から被告人の腕を挟みつけるようにぴたりとくっついて座ったりもした。それも身体を拘束することでは同じだった。手錠の代わりに人による身体の拘束だった。それにも抗議してできないようにした。

いちどは、こんなこともあった。時局事件の被告人が手錠も捕縄もなく座ったのだが、動作の具合がおかしかった。ただしてみると、被告人のひじの上部を縄でしばり、その上から囚人服を着せて身体の拘束がないかのように偽装していたのだった。それが分かったときは、裁判長もいっしょになって刑務官をとがめたのだった。

■検事を怒鳴りつける
時局事件の裁判では私服の警官があらかじめ傍聴席を埋めてしまうというやり方で傍聴者の入場を阻止したりもした。それで、裁判長に確認を求めると大半が警察官であることが分かり、裁判長ともども驚いたこともあった。

被告人の冒頭陳述権をめぐり裁判長らと何度か論争したりもした。刑事訴訟法の条文だけではだめだった。註釈書や裁判所実務提要の条文解説まで示して冒頭陳述権が被告人の権利であることを認めさせた。

検事のぞんざいな尋問のやり方も見過ごせず、裁判長に注意するよう求めた。とくに盧武鉉弁護士は検事が被告人を不当にどやしつけたり、ぞんざいな言葉づかいをしたりするのを決して許さなかった。

そんな場合、「どうしてそんなぞんざいな言い方をするのか」と徹底して怒鳴りつけた。検事の過ちに対する強い抗議の意味もあったが、被告人が臆することのないようにしようとしたのだった。

■接見拒む警察とのたたかい
捜査についても同じことだった。時局事件では強圧的な捜査を防ごうと努めた。連行されると、できるだけ早く接見に行くことにしていた。警察の方は、捜査中であることを理由に接見を拒むのが普通だった。

対共分室で調べる事件の場合、その対共分室に行くと容疑者が留置されている警察署に行けといい、警察署へ行けば対共分室に行って申請しろといっては無駄足を踏ませた。そのように接見を妨害するのが常だった。

それでいてそれまで、そんなことを問い詰める者はいなかった。私たちはそのようなことに強く抗議した。私たちだけで解決できないときは弁護士会に問題を提起した。そうして釜山市警察から「是正する」との返答を引き出したりもした。盧武鉉弁護士は弁護人接見を何度も拒否した警察署の捜査課長を告訴したこともあった。

こうして裁判と捜査における多くの間違った慣行を正した。そのよう努力が時局事件で実を結ぶとすぐに一般事件にまで広がった。いまではそのような慣行はほとんどなくなった。少しばかり前のことなのだが、若い法曹人はそのような時代があったということを容易に信じないほどに今は変わってきている。



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