2017年4月16日日曜日

続・文在寅回顧録④――富裕層の子らの中で…

■目立たない子だった
小学校時代、私は目立たない子どもだった。背が低く、体も弱かった。とても内向的で、先生の関心を引いたこともなかった。授業時間以外に先生ととくに話したという記憶もない。実際のところ、貧しい地区にあって1クラス80人を超える児童がいたのだから先生も一人一人を注意深く見守るということはできなかったと思う。

学期末や学年末に先生は通知簿をくれた。「秀」「優」「美」「良」「可」の5段階だったが、5年生まで私は「秀」はめったになく、ほとんどが「優」か「美」で、「良」もあった。3段階で評価した発育状況もまあまあというところだった。私は成績にとくに関心はなかった。父母も通知簿を見てとがめたりすることはなかった。


中学校に入試があった時代で、6年生になると学校では遅くまで勉強させた。毎日のように試験があり、模擬試験もしょっちゅう行われた。そうして4月ごろになり、私は勉強ができる方だということに初めて気が付いた[*]。

[*当時、韓国の義務教育は小学校までだった。韓国の新学期は3月から始まる]

■補習受けずに難関中学合格
ある日、担任の先生が私を呼んだかと思うと「成績が非常にいい」とほめちぎった。そうして私に補習授業を受ければ一流の中学校に行けるので、家で相談してくるように、というのだった。

クラスで勉強のできる子らはたいがい5年生の2学期ごろから担任の先生の補習授業を受けていることが分かった。放課後、先生の家に集まり夜遅くまで勉強するのだという。しかし、その授業料はわが家ではとても無理だった。家庭の事情が許さない、と先生に伝えた。家にはそのことについては何も話さなかった。

純真な時だったので、私は余計なことは考えずに一生懸命勉強した。入試は全科目で音楽、美術、体育も含まれていた。この3科目では体育だけに実技があり、音楽と美術は筆記だけだった。小学校時代を通してオルガンのような楽器で音楽教育を受けたことは一度もなかった。音符記号だけをそのまま暗記して試験を受けた。

体育の試験は徒競走、幅跳び、投擲、懸垂などだった。腕の力が弱く、懸垂がまったくできなかった。友だちから、酢をたくさん飲めば骨が柔らかくなり、懸垂がうまくできるようになると聞いた。試してみたくなり、母のいないときに台所で酢をごくんと一口飲んでみた。

このごろのような醸造酢ではなく、氷酢酸だった。口に入った瞬間、火が出たように熱くなった。瞬時に吐き出したおかげで胃にまでは行かなかった。もし、そうなっていたら、大変なことになっていただろう。

それでも唇と口の中、食道までが腫れあがり、何日間か食事がうまくできなかった。痛いというより、恥ずかしくて顔も上げられなかった。あとで、後輩たちの間で入試のさいのがむしゃらぶりの一例として語り草になったと聞いた。

ラッキーにも当時、釜山で一番といわれた慶南中学に合格できた。私がいた小学校出身の合格者は何人もいなかった。父も母もほんとうに喜んだ。私が生まれてから、いちばん喜んでもらえたことだったと思う。

父は私を連れて国際市場[*]の学生服を仕立てる店に行き、制服をつくってくれた。そういう場合、父はいつも咸鏡道出身の人の店に行った。学生服店の主人が学校名を聞いて祝いの言葉を述べたときの父の誇らしげな様子はいまだに覚えている。

[*国際市場は、釜山の中心部に位置する釜山を代表する市場の一つ。朝鮮戦争後、米軍の援助物資やヤミ物資などを避難民らが扱ってにぎわい、発展してきた。この「続・文在寅回顧録」の初回で取り上げた韓国映画「国際市場」は、この市場を舞台回しにしている]

■富裕層の子らの中で…
いったん中学入試にパスすると、高校の入試は易しかった。
慶南中学校は市内の富裕層が住む地区にあり、生徒らもだいたいが裕福だった。登校してみると、入学前に塾で英語を習ってきた子が多かった。中学校で習う前に英語の本をすらすらと読むのだった。

廊下に張り出された「Boys, be ambitious!」といった文章を自分たちだけで読み、解釈し合っているのを見て、私は初めから気圧されてしまった。貧しい子が多かった小学校の時とはまったく雰囲気が違っていた。

遊びの方や小遣いが違い、いっしょに交わるのは難しかった。時々友だちの家について行ってみたが、初めて見る豪奢な家や庭、家具には驚くばかりだった。加えて、そこで働いている人たちから「お坊ちゃん」と崇められる友人の様子に気後れしたこともあった。

当時、富裕層には「女中」と呼ばれる家事手伝いを置いている家が多かった。世の中の不公平というものを初めて強く感じだ。

■読書の楽しさ知る
だんだんと学校の図書館で過ごす時間が多くなった。本を読んでいる時が一番幸せだった。本が好きになったのは父のおかげだった。父が商売をしていた時期、いちど仕事に出ると1カ月ほども帰らないことがあった。

父は帰るたびに必ず、私のために童話や児童文学、偉人伝のような本を買ってきてくれた。アンデルセン童話集、姜小泉の児童文学、子供向けのプルターク英雄伝のような本だった。

「家なき子」のような外国作家の長編児童文学もあった。教科書以外に初めて接する本で、非常におもしろかった。父が次の本を買ってくるまで2度、3度と読み返した。

父が商売をやめ、本を買ってくることがなくなってからは、いつも本に飢えていた。新学年になって教科書が手に入ると、私のものだけでなく3年上の姉の分までも読みあさり、おもしろそうなものは一気に読み終えたりした。「国語」や「社会生活」に載っている話などだった。

そんななか、中学に入って図書館を知った。読む本は、それこそいくらでもあった。手当たり次第に読んでいった。その面白さにはまり、2年生の時には3カ月ほど毎日、図書館が閉まるまで本を読んでいた。最後に椅子の整理の手伝いをしてから帰る日が続いたこともあった。

■社会意識の目覚め
時間があれば学校の図書館に行くか本の貸し出しを受けて読む、という生活は高校を卒業するまで続いた。韓国の小説に始まり、外国の小説、そしてしだいに他の分野へと領域が広がっていった。手当たり次第だった。「思想界」(*)のような意識を目覚めさせる雑誌に接するのも比較的早かった。

(*「思想界」は1950年代、在野の白楽濬、張俊河氏らが私財を投じてつくった雑誌。李承晩、朴正煕の独裁政権に立ち向かった勢力の主張を代弁し、知識人や学生らの間で爆発的な人気を呼んだ)

卑猥な小説本も早くに読んでみた。読書計画や目標といったものはなく、やみくもに読んだ。中学・高校の6年間を通じてずいぶんと読み、それを通じて世の中や人生について知るようになった。そこから社会的な意識も生まれた。

中学の時に読んだ金燦三教授の「世界一周無銭旅行記」のような本は私に世界旅行の夢を抱かせてくれた。もちろん、未だに夢のままである。それでもネパール、インドのトレッキング旅行とシルクロード旅行だけでもできたのはそんな夢を育んできたからだった。

私はいまでも本を読むのが好きだ。いや、好きというレベルを超え、時には活字中毒になっているようにも思える。どこかへ旅行するときも、持って行く本で荷物が重たくなってしまう。寝る時も手の届くところに本がないと、どこか落ち着かない。

■入試の勉強疎かに
読書に集中するあまり、自ずと学校の勉強はおざなりになった。入試のための勉強がさほど重要とは思えなかった。ただ上位圏を維持することで満足した。父母も試験期間中ですらほかの本を読むのを見ても、とがめたりはしなかった。それなりの席次を維持していたので、やるべきことはやっているのだろうと信じていたようだ。

父母は中学・高校の6年間を通じて私に勉強しろと説教したり、干渉したりしたことはなかった。私のことを信じて任せてくれた。私はそんな自由を学校の勉強ために使わず、突飛な方向に使ったというわけだった。

結局、のちに大学入試で、その対価を払うことになった。それでも読書で私の内面が成長した。社会的な意識も持つようになった。十分な対価が得られたと思っている。

私が比較的早い時期に社会的な意識を育てることができたのには、早くから新聞を読んでいたことがあると思う。本に飢えていたのと同じ理由で、私は父が読む新聞を小さな時から読んでいた。

当時の新聞は漢字をけっこう使っていた。初めは漢字がない連載小説のようなものだけを読んでいたのだが、そのうちに漢字が交じった記事も読むようになった。慣れてくると、前後の文脈から理解できるようになり、しょっちゅう出てくる簡単な漢字はマスターできた。

父は当時、代表的な野党紙として知られた「東亜日報」の固定読者だった。私もその新聞を長い間読むことで社会の現実に対する批判意識を育むことができた。そういう意味でも、最近あまりにも変わってしまった「東亜日報」が私にはもどかしい。元の姿を取り戻してくれるよう願わざるを得ない、そんな昔からの読者のうちの一人といえる。

2017年4月9日日曜日

続・文在寅回顧録③――弁当がなく、トウモロコシ粥すすった

■学校への納入金を出せない子がいた
小学校の時、毎月学校に納めるお金があった。初めは「月謝」といっていたが、のちに父母会費」という言い方にかわった。それが6年生のころには、また「育成会費」という名前になったと記憶している。貧しくて、そのお金を期限内に納められない子が多かった。

担任の先生はそんな子の名前を呼び、督促した。立たせて叱りつけたりもした。それでもお金を持ってこない時は、家に行ってお金をもらってくるよう、授業中に教室から追い出した。


1クラス80人ほどだったが、そのように追い出される子が20人ほども数えた。わが家は貧しくはあったが、学校に出すお金くらいは何とか都合してくれた。それでもどうしても遅れてしまうときがあり、他の子らといっしょに家に取りにやらされたこともあった。

貧しいと、機転を利かせるようになるのも早いものだ。教室を追い出されたからといって家に行く子はほとんどいなかった。家に行ったからといって解決する問題でもなく、親の心を痛めるだけだった。

そのままみんなで二松島の浜辺へ行って遊び、学校が終わるころに教室に戻った。先生には「家には誰もいなかった」とか、「お母さんが近いうちに、といっている」などと、さも家に行ってきたかのようなウソを言うのだった。

■一部は担任のポケットに
小学校6年生の時、そのように教室を追いだされたあと貸本屋で漫画をみていて出てきたところを偶然、担任の先生に見つかってしまったことがある。全員、学校に引っ張っていかれ、しこたま殴られた。こうしていつもいじめられているうちにやがて、学校に行かなくなってしまう子もいた。

そんな子とあとで会ってみると、製菓店や洋服屋のようなところで下働きをしたりしていた。卒業間近になって分かったのだが、父母会費や育成会費[*]は全員が出さなければならないものでもなかった。正確には覚えていないが、学級の3分の2の児童が出せばよかったのだ。超過分は担任の収入になったので、督促していたのだ。

[*育成会費は学校の運営に必要な資金を得るため授業料とは別に集めた。1997年までに全面廃止された]

■「衛生検査」で辱め
貧しい子どもたちは正月か秋夕の時以外、銭湯に行けなかった。先生たちは衛生検査だといって時々、上半身を裸にさせて調べ、垢が多いと、みんなの前で辱めたりもした。私はそんなことは一度もなかったが、辱めを受けるほかの子を見るだけで侮蔑感とともに反抗心を覚えたものだ。

小学校で弁当が必要な学年になっても大半の子は弁当を持って来られなかった。弁当のない子には学校で給食を出した。学校に供給される食材が一定していなかったためか、トウモロコシの餅が一個ずつの時と半個ずつの時があった。それさえないときは、トウモロコシのお粥だった。

ところで、そんなときも給食を分ける器というものがなかった。トウモロコシの餅のときはそれでもよかったが、お粥の時が問題だった。弁当を持ってきた子たちから、弁当のふたを借りてお粥をよそってもらうようにした。弁当のふたが足りないときは2人が交替で使うこともあった。

■傷ついた自尊心
私もそのようにして給食を食べた。弁当のふたを借りる時はその度に自尊心が傷ついた。「学校で器を提供してくれるか、それがむずかしいのなら家から持ってくるようにすればいいのに…」と思った。

そのような個人的な経験もあり、このところの給食無償化論争を関心深く見守っている。盧武鉉政権の時期、欠食児童を対象に夏休み期間中などの給食を初めてスタートさせてみた。最初の実施期間が終わった後で点検してみると、支給率は思いのほか低かった。

原因を調べてみると、子らの自尊心を傷つけないやり方を考えておらず、給食の支給を受けるよりは、むしろ空腹を耐える方を選ぶ子が多いということが分かった。給食以上に、自尊心を守ってやることの方が大事なのだということが確認できた。

■自転車に乗れなかった
貧しいがために、やりたくてもできないことも多かった。お金のかかることは初めから父母に言い出せなかった。私は今も自転車に乗ることができない。家に自転車というものがなかったからだ。中学校時代、学校の前に自転車を貸し出す店があり、放課後にそれを借りて乗る友だちもいたが、それもお金がかかったので、私はやれなかった。

幼いころには好きだったコマ回しやチャチギ[*]、凧揚げのような遊び道具も買えず、家で作った。他の子らは父親や兄に作ってもらっていた。私は、父が商売に出て家にいなかったので自分で作った。たとえ、父が家にいたとしても元来、手先が不器用な人だったのであまりあてにならなかったと思う。

[*자치기=短い棒を長い棒で打ち飛ばし、飛距離を競う子どもの遊び]


凧糸用の糸巻は、簡単なものは自分で作れたが、巻く速度がずっと速くなる型のものは作れず、毎年悔しい思いをしたものだ。輪回しの棒も自分で作ろうとしてみたが、うまくいかった。

小学校3年生か4年生のとき、台所の包丁でチャチギ用の棒を削っていて左手の人差し指を過って傷つけてしまった。爪のほぼ3分の1を切ってしまうほどの深い傷だった。とても痛く、たくさんの血が出て怖かったが、家にはだれもおらず、一人で布切れを巻いて処置した。

その後、治るまで「赤チン」[*]と呼ばれたマーキュロクロムを塗って我慢した。なんとか耐えられたので、最後まで親には言わずに隠していた。このごろだと、病院に行って何針か縫わなければならないところだっただろう。
[*韓国語でも아까징끼(アカチンキ)]

できることなら、自分で解決する、辛くてもともかく一人でぶち当たってみる。そのような姿勢が自立と独立の心を育てるのに大いに役立ったと思う。貧しさが私にくれた贈り物だった。

■お金よりも大切なもの
そのような贈り物といえば、もっと大きいものもある。「お金といっても、そんなに大事なものではない」という今の私の価値観はむしろ、貧しさの中から生まれてきたものといっていい。貧しさに耐えようとした私の自尊心がそうさせたのかもしれない。

両親も同じことだった。貧しい中で私たちを育てながらも、お金が最高の価値だというようには教えなかった。「お金は大切だが、一番大事なものではない」。そのような価値観が、この間生きてきた私にとって大きな助けになったと思う。

父母は教育に特別に熱心だった。少し遅れることはあっても、どんな場合でも月謝は出してくれた。しかし、それでも貧しさは私をいじけさせた。先生の質問に皆が「はい! はい!」と手を挙げたが、私は一度も手を挙げたことがない。先生に当てられると仕方なく答えたが、自分から進んで手を挙げて発表したことは一度もなかった。もちろん、父母が学校に来たこともなかった。

2017年4月7日金曜日

続・文在寅回顧録②――母を手伝い、リヤカー引いた

■父は興南市で農業課長
父は日本の植民地時代に咸興農高を出た。土地の人たちは「咸興農業」と呼んでいた。「咸興高普[高等普通学校]」とともに咸鏡道地域の名門だった。父は近隣で秀才といわれたという。

幼いころの父を負ぶって育てたという伯母の話では、入学試験の前もとくに勉強している様子はなかったといい、一族ではもちろん、近隣でも咸興農業に入ったのは父一人だけだったという。卒業後、父は公務員試験にパスし、北朝鮮政府の治下、興南市の農業係長をした。

当時、共産党への入党を強要されたが、最後まで受け入れなかったという。短くはあったが、国連軍が興南に進駐した期間、農業課長も務めた。そうして南へ避難してきたのだった。

北で公務員をした人たちの場合、南でも公務員として採用されるケースがあったようだ。しかし、父は共産党への入党強要で悩まされた農業係長時代の経験から、公務員はやらない、と決めたのだという。それで、釜山に出てきたあと、商売をした。しかし父は私から見ても商売は合わなかった。物静かな性格で酒を飲むこともなかった。そのまま公務員とか教師が性格に合う人だった。

■商売に失敗
父がした商売というのは、釜山の靴下工場で靴下を仕入れ、全羅南道地域の販売商に卸す仕事だった。

父はそんな仕事を何年間か続け、売り掛けの未収金だけがどんどん積もった。あちこちで不渡りをつかまされ、借金をどっさりと負うことになった。工場から仕入れた分の代金は支払わなければならず、長い間、借金の返済にあえいでいた。

それでも、もしかして後で代金をもらえるかも、との思いから伝票のようなものをずいぶんと長い間、保管していた。しかし、そのような日は訪れなかった。それで父は倒れてしまい、再起はならなかった。何の縁故もない土地であり、頼れるところはなかった。それ以来、父は経済的に無能になった。貧乏から抜け出せなかった。

商売に失敗した後、静かな父はますます口数が少なくなった。私はわが家の貧しさも辛かったが、分断と戦争で父が自分の生きようを失ったのがもっと胸にこたえた。

父は、私が大学を除籍され、拘束・収監された後、軍隊に行ってきても復学がかなわなかった浪人の時代、つまり、私が最も苦しかった時期に亡くなった。不幸だった父の人生がかわいそうでならない。私がうまくやっている姿を少しなりとも見せてあげられず、本当に申し訳ないという思いだ。あとになって私がうまくいったからといって挽回できるものではなく、一生の悔恨として残ることになった。

■母が家計をやりくり
父の商売失敗後、わが家の家計はほとんど母がやりくりした。母も経済的な能力がないということでは同じだった。ただ、かろうじて糊口をしのぐという暮らしだった。あれこれと一生懸命やったが、とくにお金になるような仕事ではなかった。

母が初めてやった仕事は救護物資の衣類を市場に並べて売ることだった。私たちが住む地区で小さな雑貨屋をしてみたこともあったが、周りがみな貧しいうえに、何軒ともない地区だった。うまくいくはずがなかった。

練炭の配達もした。すこしは規模が大きく、工場から練炭を仕入れて売るのだったら、体はすこししんどくても、商売になっただろうが、そんなことではなかった。店に置いておいて少しずつ近所の家に配達するというやり方だった。なんとか辛うじて食っていけるという生活から抜け出ることはできなかった。

それでも、母は父に練炭配達を手伝わせることはなかった。手伝いが必要な時は、私か弟に言いつけた。学校から帰った後や、休みの日には、リヤカーを引いたり手で持ったりして練炭の配達を手伝った。

■恥ずかしかった練炭配達
私は煤がつく練炭配達の仕事はいつも恥ずかしかった。どちらかというと、幼い弟のほうが黙々とよく手伝った。私はぶつぶつと文句ばかりを言い、母を悲しませた。

ある日、リヤカーに練炭を満載し、私が前から引き、母が後ろから支えながら坂を下っていた時のことだ。母が力負けし手を放してしまった。あおりで、私も耐えきれなくなり、道端にはまり込んでしまった。練炭がすこし壊れただけで、けがはなかったが、母はずいぶんと傷心してしまった。

わが家に限らず、みなが貧しい時代だった。当時、釜山の影島には北からの避難民が多かった。私たちが住んでいた山腹道路地区の周囲には土地の人よりも私たちのような避難民のほうが多かった。

釜山の竜頭山公園下の避難民のバラック村が大火で全焼したことがあった。罹災した人たちのための収容村が何カ所かつくられた。私たちの下の村もそうしたうちの一つだったが、まさに極貧といえる状態だった。

北の避難民は生活力があり、成功者が多いといった話を聞くことがよくある。しかし、私が見るには、そうではない。戦争の前に北の体制が嫌で南にきた人は、たいていが上流階層だった。その場合は財産を整理してきていたので、たいがい暮らし向きはよいほうだった。

しかし戦争のさなかに急遽、避難してきた人たちはそうではなかった。手ぶらの避難生活をしていて成功するのは容易いことではなかった。大部分の人たちは、その代のうちに貧困から抜け出すことができかった。

■バケツを手に配給待ち
貧しい人たちが多く、近所の聖堂で救援の食糧を配給してくれた。米国が無償で援助した余剰農産物だったと思う。主にトウモロコシの粉だったが、全脂粉乳のときもあった。食事代わりになった。

小学校12年のとき、配給の日には学校から帰った後、バケツを持って列を作り、順番待ちをして食糧をもらってきたものだ。嫌な仕事だったが、長男の役目だった。子どもだからということで修道女たちがドロップや果物を手に握らせてくれたこともあった。

そんな時、幼い私の目に修道服姿のシスターたちは天使のように映った。そういったこともあって母がまずカトリックの信者になった。私も小学校3年の時に洗礼を受けた。

影島の新仙聖堂だった。私はその聖堂で結婚式も挙げた。母はいまでもそこに通っている。信仰心が篤いところへ長い間通っているものだから司牧会の女性部会長をしたこともある。また、聖堂の信用協同組合の理事をしたりもした。

■バラックの教室で勉強
貧しいといえば、学校も同じだった。私が通った南港小学校は元もと小さな学校だった。ところが、避難民が押し寄せ、1学年の児童数が千人にもなった。やむなく運動場の周辺にトタン屋根のバラック教室を建てて急場をしのいだ。仮校舎と呼んでいた。私たちは入学から3年生までこの仮校舎で勉強した。

教室の床は土間で、大雨が降るとぬかるんだりした。そうなると授業は中断し、子供たちを帰宅させた。小学校1年生の秋夕(19599月の中秋)のとき、気象観測史上最大の台風という「サラ」[*]が釜山地域を襲った。

[*日本で「宮古島台風」といわれる台風14号。宮古島測候所で908.1ミリバールの最低気圧を観測。釜山を直撃し、多数の死傷者が出た]

■自宅の屋根吹き飛ぶ
秋夕の連休を終えて登校してみると、仮校舎がすべて吹き飛ばされ、なくなっていた。それで、教室があった場所で、地べたで授業をした。机がないので絵を描く画板をひもで首から掛け、その上に本やノートを置いて授業を受けた。

屋根がないので雨が降ると授業は打ち切られ、家に帰るしかなかった。のちに6年生が卒業したことによって空いた教室を臨時に使い、仮校舎の再建を待った。
 
台風「サラ」では、わが家も屋根が吹き飛ばされた。そのことは今も記憶に生々しい。当時のわが家は土レンガの建物で、屋根は板をルーフィングで覆っていた。運悪く、父は商売に出かけたまま帰っておらず、不在だった。

強烈な風が吹きつけ台所の木製のドアが揺さぶられ続けていたと思うと、とうとう留め金が外れてしまった。母と私はドアが開かないよう手で支えた。姉も手伝った。しかし、風の力には勝てず、ドアを放してしまった。

ドアがさーっと開き、残りの留め金も外れてしまった。風が一気に室内に吹き込んできた。家の中が風で膨れ上がったように思えた、その瞬間、風が上方に抜けたように感じられた。屋根がそっくり吹っ飛んでいってしまった。どこへ飛んだのか、屋根は見つけることができなかった。

2017年4月3日月曜日

続・文在寅回想録――ルーツは北の地域/朝鮮戦争で南に避難

韓国の野党「共に民主党」の大統領選候補に決まった文在寅(ムン・ジェイン)氏(64)についてこれまでその回顧録『運命』(2011年、ソウルで出版)の一部を拙訳で紹介してきた。弁護士時代のことが中心だったのだが、読んでいただいた方から「ほかの部分も…」という声が届いた。

たしかに、興味深い部分はほかにも多い。というわけで、弁護士時代のことはいったん打ち切り、他に目を引いた部分を抄訳してみたい。まずは、彼のルーツと生い立ちから――。
 
■「興南撤収」で故郷離れる
私の父母の故郷は、咸鏡南道興南である。わが一族は何代にもわたり興南で暮らしていた。そこには文氏だけが住む村があるほど、親戚が集住していたという。
 
文氏の村は松林に囲まれ、「マツ林の中の村」と呼ばれていた。そう言えば、近隣ではだれにでも分かったという。そんな村で、平和に暮らしていた父母や親戚の幸せな日々は戦争によって終止符が打たれることとなった。
 
父母は195012月の「興南撤収」[*]で故郷を離れた。
 
[*興南は、北朝鮮区域の咸興湾に面した港湾・化学工業都市。「興南撤収」とは朝鮮戦争時、中国人民解放軍部隊の参戦に伴って行われた国連軍の撤収作戦のこと。東部戦線で北進していた米軍第10軍団と韓国軍第1軍団が押し戻され、1950121524日、興南港から米艦船に避難民らも載せて撤収した。韓国で2014年に制作された映画「国際市場」<日本語字幕版「国際市場で逢いましょう」>はこの興南撤収を扱い、韓国社会に大きな反響を呼んだ。http://kokusaiichiba.jp/
 
まだ乳飲み子だった姉を背負い、南に避難してきた。韓国軍と米軍が豆満江まで北進して行ったさい、予想もしない中国軍の介入によって退却を余儀なくされたのだ。その時は、いずれ、戦列さえ整えばすぐに失地回復できるとみていたという。
 
それで、老人たちはそのまま残し、若い者だけでしばらく避難しようと故郷を離れた人が多かった。わが家も祖父母は残った。父は、祖父母の生死すら分からないまま亡くなった。後になって祖父母は死んだということを聞いたが、いつ亡くなったのか、正確な時期はいまも分からないままだ。
 
■着いた先は巨済島
避難は米軍のLST(兵力や戦車を上陸させる軍用艦艇)でなされた。しかし、実際のところその当時、避難民らは米軍が自分たちをどこに連れていこうとしているのかさえ分からなかった。
 
23日、船倉での生活だった。米軍の統制が緩んださいに、はしごで甲板に上がり外を眺めることができた。その時、近くの陸地から光が見え、そこが浦項だと聞かされた。それで、行く先が南海岸地域だと推測できた。
 
途中、クリスマスだといって米軍がドロップを何粒か分けてくれたりもした。米軍が連れて行ってくれたところは慶尚南道の巨済島だった。そこには臨時に避難民収容所が設けられていた。
 
興南を出るさい、辺り一面が白い雪一色に覆われていた。それが、巨済島に着くと、すべてが緑色だった。母はそのことが不思議でならなかったという。常緑樹と青い麦畑が故郷の風景とあまりにも違っていたのだった。「ここは本当に暖かい南の国なんだな」というのが巨済島についての母の第一印象だった。
 
冬というのに故郷と比べてずいぶんと暖かい気候と併せ、島の人たちの豊かな人情が何の準備もなくやってきた避難民をやさしく包み込んでくれた。鍋、釜といった炊事道具や食べ物を分けてくれ、避難生活を始めるうえでの困難を乗り切れるよう支援してくれた。
 
のちのち、各地に散らばった家族が一堂に会した時など、避難生活時代の思い出話をしているのを聞くことがあった。そんな時は巨済島の人たちの温かな人情についての話が多かった。「これが仮に、南の人たちが興南に避難してきたとしたら、同じようにしてあげられただろうか」といった話もしていた。
 
巨済島に来た興南の避難民は島民の恩が忘れられず、「恩返し運動」をしたりもした。興南市民会とか、避難民のなかでのちに成功した人の中には個人的に巨済島の学校に奨学金を贈る人もいた。
 
■何の縁故もなく…
避難する際、父と母は23週間程度と考えて故郷を出たという。だから、それこそ赤手空拳、何も持たずに故郷を出たのだった。そして、何の縁故もない見知らぬ土地で、ろくな準備もないままに新しい生活を始めたのだった。なんの足掛かりや寄る辺もない暮らしだった。
 
父の方はそれでも近い親族がいっしょに避難してきていたが、母方のほうはだれもいっしょに来ることができなかった。母方の村は興南の北を流れる城川江を渡ってすぐのところだったが、興南との間を結ぶ橋が米軍によって通行止めにされたためだった。
 
朝鮮戦争時の「興南撤収」について書いたものを読んだことがある。それによると、撤収を前にしてとどめようもなく殺到する避難民を制限するためと、避難民に紛れて浸透する敵を防ぐためにそのような措置をとったのだという。
 
いずれにしても、母は南の地では、まったくの孤独だった。避難生活があまりにも辛く、しんどく、どこかへ逃げ出したくなったときもあったが、ほかに頼るところもなく、逃げることさえできなかったのだ、と冗談めかして話したりもした。
 
■避難生活中に生まれる
私はその巨済島で、そんな避難生活をしているときに生まれた。田舎家の一間に3人で暮らしていた時だった。たまたま家主のおばさんも同時期に妊娠していたおかげで、出産時、母は一時的に借りた別の家で私を産んだのだという。同じ家の中で2人の赤ん坊がいっしょに生まれるのはよくない、という迷信があったからだった。
 
わが一族の中では私が最初の男の子だったので、みんなが喜び、祝福されるなかでの出生だった。
 
のちに母が還暦を迎えたとき、母を連れて私が生まれた場所をはじめ、父と母が避難生活をしていた界隈を見て回ったことがある。30年の歳月が流れていたというのに、母は住んでいた地区や家のことをすべて覚えていた。母と同じ年ごろか、母より年配のおばあさんたちも母のことを覚えており、だれもが昔呼んでいたとおりの名で呼び、お互いに喜び合うのだった。
 
父は(巨済島にあった)捕虜収容所で労務者として働いた。母は島内で鶏卵を安く仕入れ、釜山へ売りに行く行商をしていた。鶏卵を頭の上に載せ、私をおぶったまま海を渡って釜山へ行ったのだった。
 
■小学校入学を機に釜山へ
それで少しずつお金を貯め、すこし貯まったところで私が小学校に入るちょっと前に釜山の影島に引っ越した。引っ越しの機会をうかがっていて、私が小学校に入る機をとらえて実行したのだった。
 
引っ越しのときのことが記憶に残っている。大きな船から降り、黄色いアワの穂が頭を垂れた畑の横を通って、引っ越し先の家に着いたのだった。当時の影島は、行政区の上でこそ釜山市だったが、まだ、田畑の多い農村地帯だった。
 
巨済島は私の生まれたところだが、幼い時に離れてしまったのでとくに記憶として残っていることはない。いっしょに避難してきた一族もほぼ同じころに巨済島を離れ、縁故も残っていない。
 
それでも私にとっては生まれ故郷であり、父母が避難生活をしたところなので、いつも切なく思い出される。(盧武鉉政権時代に大統領秘書室長などとして)青瓦台にいるとき、私がそれでも巨済の出身だというので巨済地域の懸案について支援要請があったりすると、いつも神経を使っていたものだ。

 
 

2017年3月28日火曜日

文在寅回想録⑤――労働者に寄り添って

■機関員の監視
当時の盧武鉉弁護士はいま考えると、まさに激烈だった。初めて信仰の道に入った信者が、古くからの信者以上に信仰生活に熱情的なのと、どこか似ていた。

私には「弁護士なのだからやれる範囲はここまで…」という、自ら設定したラインがあった。私に限らず、みながそうだった。弁護士には弁護士のやりようがあるというのが一般的な考えだった。しかし盧武鉉弁護士はそうではなかった。正しいと思うとおりに行動した。のちの政治家・盧武鉉も同じだった。

公害問題研究所釜山支部ができると、そこで活動する人たちは情報機関の監視対象になった。情報員や刑事がその事務室前に陣取るようにして活動を監視し、出入りする人たちをチェックした。事務室の中にまで随時出入りした。

すると、盧武鉉氏は弁護士事務所の一室を公害問題研究所の事務室として提供した。運動の財政的な支援を兼ね、機関員からも守ろうとしたのだった。それでもなお、事務室の前に機関員が常駐はしたが、中には入って来られなかった。

そこからさらに一歩進み、弁護士事務所内に労働法律相談所も設けた。それまで私たちは労働事件が発生すれば裁判と弁論を支援するというやり方をしていた。しかし、盧武鉉氏はそれで満足しなかった。労働組合の設立から日常活動までを支援しようとしたのである。

■盧武鉉弁護士の原則主義
釜山民主市民協議会の創立大会を開いた日のことだった。行事は1部が講演会、2部で創立大会を予定していた。1部の講演の弁士は趙甲済氏(*)だった。そのときまで彼は「国際新聞」の解職記者として地域でいい評価を受けていた。

(*のちに『月刊朝鮮』編集長などをつとめた極右保守の論客)

警察が会場を封じ込め、初めから中に入れなくした。そんな不法をみんなで糾弾した。それでも警察がどかないと、盧武鉉弁護士はそのまま路上に横になり、一人でスローガンを叫ぶのだった。

それによって一気に過激な弁護士という噂になった。弁護士として品位に欠ける、とも言われた。しかし、警察の不法な会場封じ込めに、ただ抗議するそぶりだけで済ますことはできないというのが盧武鉉氏の考えだった。

この件について私たちは釜山市警察局長(現在の釜山警察庁長)と管轄警察署長を刑事告訴した。盧武鉉弁護士が代表告訴人になったが、まともに捜査もしないままうやむやにされてしまった。

のちのことになるが、1987年、故朴鍾哲君の追慕集会で私と盧武鉉氏がいっしょに連行され、取り調べを受けた時も同じだった。私は調べに応じ、正当性を主張するというやり方で臨んだのだが、盧武鉉氏は初めから陳述を拒み、署名・捺印すら拒否した。

盧武鉉氏は連行され、調べを受けること自体が不法、不当でいっさい応じられないとがんばったのだった。初めてのことであり、まして弁護士という立場では調べ自体を拒むというのは容易なことではなかっただろうに、自分が正しいと思った通りを貫いたのである。

それが後日、政治家になった盧武鉉氏の原則主義だったと私は思っている。

■デモ参加を妨害
全斗煥独裁政権に対する抵抗がしだいに強まり、集会やデモが頻繁におこなわれるようになると、主要な集会、デモのさいには警察が事務所を訪ねてきて参加できないよう妨害した。「事務所軟禁」だった。弁護士に対してもそのようなことがなされた時代だった。

集会、デモがあるときは、警察の目をどう逃れるか、常に思いをめぐらせなければならなかった。初めから事務所に入らないようにしたこともあった。また、いったん入った後でいろいろと工夫をこらしたりもした。情報機関員や刑事が集会、デモの会場までついてくることもあった。

わが家が捜索・押収されたこともある。アパートに住んでいたときのことだが、刑事がそのアパートの警備室に23日間たてこもっていて、ある日、正式に令状をもってやってきた。事由は、「53仁川事態」(*)関連者のうちの一人が我が家に隠れている疑いがあるというものだった。

(*198653日、学生や在野関係者約1万人が国民憲法制定など求めて繰り広げた大規模デモ。319人が連行され、129人が拘束された。全斗煥独裁政権が民主化運動弾圧を本格化させる契機となった)

確認してみると、「匿名の市民が電話で通報してきた」という警察官の報告書一枚が唯一の根拠だった。あきれ果てるばかりだった。公安検事が請求すれば、現職弁護士に対しても判事がそんな令状をだす暗黒の時代だった。

■女子工員らを無償で弁護
労働者たちが権利意識に目覚め、労働事件が相次ぎ始めた。私もそうだったが、盧武鉉弁護士は学生の事件よりも労働事件への関心の方がずっと大きかった。主張や論理がいつも似ていた学生の事件と違い、そこには労働者が生活を立てていくうえでの苦労がにじんでいた。

そのころ、釜山の主力産業だった靴工場で働く女性労働者らの処遇は極めて劣悪だった。残業や特別勤務を合わせても月6~7万ウォン台、それも遅払いが常態化していた。作業場内の人格侮辱やセクハラも茶飯事だった。生存権を掲げて勤労基準法の順守を要求したり、すこし後になってからは労働組合づくりをしたりして集団解雇される女性労働者が多かった。

自らを守るために集団行動に出て業務妨害で拘束される労働者も多かった。彼女たちに会うたびに心が痛んだ。2人で無償の弁論を精一杯やったが、救ってあげられなかった人たちも多かった。

盧武鉉弁護士はそのような事件を重ねるうちに労働弁護士に専念しようと決心した。弁護士事務所内に労働法律相談所を付設したのもそのような考えからだった。私たち自身、専門性をもっと高めようという目的もあった。

■労働法を自分で勉強
そのころ、労働法の本は概ね保守的な観点からのものだった。その時代に噴出した労働事件を扱う上であまり役に立たなかった。そんな中にあって当時最も進歩的で現実に合う理論を提示していたのは辛仁羚教授の論文集で、大きな助けとなった。

とはいえ、その論文集で扱われていない問題が多く、自分で勉強せざるを得なかった。判事や検事らも労働法を知らないまま市民法的な考えから事件を扱った時代だった。

盧武鉉弁護士は、あまりにも熱心すぎて、そのことが後輩の弁護士にかえって負担になるほどだった。たとえば、昌原で後輩弁護士が誕生したと思ったのだが、結局、そうした負担に耐えられずに地域を去ってしまった。

労働者らにしょっちゅう盧武鉉弁護士と比べられるのが大きな負担になったと思われる。「盧武鉉弁護士は無償弁論で、法廷でもいっしょにたたかってくれた。それなのに、お前は…」と言われれば、どんなものか。あまりに献身的すぎるというのも、必ずしもいいことばかりではない、という思いだ。

盧武鉉弁護士は86年後半から人権弁護士の仕事だけに専念した。一般事件は端から引き受けなかった。時局事件、それもほとんどが労働事件だけに絞った。事件の弁論だけでなく、労働組合や労働者相手の講演も多くこなした。労働者たちの行事に招かれて参加したりもした。それで、事務所から受け取った給料は月200万ウォンにすぎなかった。