2016年9月2日金曜日

「満州」への旅⑧――長影旧址博物館

満州建国大学の建物を探した日の午前、私たちは旧満州国の国策映画社として知られた満州映画協会(満映)の撮影所跡も訪ねた。関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者大杉栄らを殺害したあの甘粕正彦(18911945)が理事長として幅を利かせ、女優李香蘭(山口淑子/19202014)の活動拠点となった場所である。

『観光コースでない「満州」』の小林慶二さんが訪れた当時ここはまだ、満映を引き継いだ長春映画製作所(長影)の撮影所として使われていた。その後改修工事がなされ、2年前に新たに博物館として生まれ変わった。今は、「観光コースでない」どころか、れっきとした長春観光の目玉の一つになっているようだ。

■長影旧址博物館
敷地に入ると、大きな毛沢東像が目に入り、博物館は、そのすぐ向こうにあった。3階建て、屋上部分に「長影旧址博物館」という赤文字の看板を掲げている。案内板を見ると、博物館のほかにコンサートホールなども設けられているようだ。すぐ横に設けられた別棟のチケット売り場で入場券を買い求めた。60歳以上割引の「老年票」で60元。一般は120元のようだ。



博物館の中は暗くしてあった。入り口から続く廊下の中央部付近は強化ガラスで覆い、ライトアップで下の床面が透けて見えるようにしてある。満映時代からの建物を改修するに当たり、元の床面を保存展示するために工夫を凝らしたようだ。

 
ガラス越しにみえる床面には、小さなカラータイルが敷き詰められ、全体として、白地に青色の竜が浮かび上がる絵柄になっている。満映時代、ここに集った映画人らの粋な趣といったようなものが伝わってくる。


■満映の時代
満映は日中戦争が始まった直後の19378月、満州国と満鉄が半額ずつを出資して設立した。展示は、その満映の時代から始まっていた。
私の目に真っ先に飛び込んできたのは、大きく掲げられた2人の人物の顔写真だ。満映初代理事長の金璧東(18971940)と、その後を継いだ甘粕正彦である。


金璧東は、清朝最後の皇帝であり、日本が「満州国皇帝」として担ぎだした「ラストエンペラー」溥儀の親戚にあたり、「東洋のマタハリ」といわれた川島芳子の兄である。理事長といっても大連在住の非常勤で、名ばかりの飾り物に過ぎなかったようだ。

■甘粕正彦
満映運営に辣腕をふるったのは193911月、2代目理事長に就任した甘粕正彦だった。満州国で隠然たる力を持ち、「満州国は、昼は関東軍司令部が支配し、夜は甘粕が支配する」とまで言われた人物である。

陸軍士官学校出身の元憲兵大尉。19239月、麹町憲兵分隊長として、大杉栄とその妻で婦人運動家だった伊藤野枝、甥でまだ6歳の橘宗一の3人を絞殺。軍法会議で懲役10年の判決を受けたものの、恩赦によってわずか3年で出所。陸軍機密費で、当時日本では憧れる人が多かったフランスに留学。29年に帰国した後、中国に渡り、満州事変などの裏で各種謀略・工作活動に携わり、満州国建設に深く関与した。

甘粕は、こうした「功績」によって満州国の警察組織のトップや、協和会中央本部総務部長をへて満映理事長に就任したのだった。

この2人の理事長の顔写真の横に、衝撃的な写真も展示されていた。甘粕の死に顔である。

添えられた写真説明には「『満映』は、映画という手段で中国人民の思想と魂に対し、8年に及ぶ政治戦と精神、文化戦をおこなった。1945820日午前555分、満映理事長の甘粕正彦は青酸カリで服毒自殺。満映は解体した」とあった。

甘粕は、日本の敗戦に伴うソ連軍の長春進駐を前に満映の理事長室、つまり、私がいま見ている、この建物の中で自らの命を絶ったのだった。

■展示がない李香蘭
満映時代の展示では、ほかに当時発行されていたとみられる雑誌『満洲映画』が並べられているのが目についた。

女優とみられる人物らが表紙を飾っている。当然のことながらここで、ある人物のことが気になった。あの満映の看板スター李香蘭のことである。見渡した限り、その李香蘭についての展示はどうやら、ないようだ。

李香蘭は、1920年、中国東北部、いまの遼寧省の省都瀋陽の近郊で、日本人の父母の間に生まれた。父母に付けられた名前は山口淑子。父親は中国語に堪能で、満鉄の関係者に中国語を教えていた。淑子は、そんな父の友人である中国人の名目上の養子となり、「李香蘭」という中国名をもらった。

その後、淑子は18歳で満映専属の「中国人女優・李香蘭」としてデビュー。中国人らの間でも大変な人気を呼んだ。その李香蘭が、ここの展示には出てきていないのである。

当然なのかもしれない。満映では、日本人男性をひたすら慕う中国人娘の役を演じるなど、日本人に都合がよく、中国を冒涜するように描いた作品も多かった。日本の敗戦に際しては「中国人として祖国を裏切った漢奸」として中華民国の軍事裁判にかけられた。結局、日本人であることが証明され、「漢奸の対象にならない」として国外追放で日本に帰国できたが、中国にとって「好ましからざる人物」であったことは間違いない。

■長影
満州国崩壊後、満映は中国共産党に接収され、194510月、「東北電影公司」となった。満映の日本人技術者らの多くもそこに引き継がれたといわれる。その後、国共内戦が始まると長春にも国民党軍が進軍。東北電影公司は、いまの黒竜江省鶴崗に避難し、そこで映画の製作を続けた。

485月、反転攻勢に出た中国共産党軍は長春を包囲して兵糧攻めにし、10月、国民党軍は降伏。旧満映の建物などは再び中国共産党が接収し、避難先から戻ってきた。55年、長春映画製作所(長影)と改名。以来、中国における映画製作の一大拠点として発展し、数々の作品を中国社会に送り出してきた。

長影旧址博物館は、そうした中国の映画史を一目で概観できるよう、工夫を凝らしてあるようだ。

毛沢東や胡錦濤氏ら、中国の最高首脳クラスがここを訪れたときの写真も展示してあった。

 

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