2016年8月28日日曜日

「満州」への旅⑦――「五族協和」の欺瞞

小林慶二さんの『観光コースでない「満州」』は、建国大学で若き日の元韓国首相姜英勲さんと3年間学寮の同じ部屋で暮らしたというジャーナリスト、上野英信(192387)のことも書いている。

《上野は建国大在学中に招集されて広島で被爆。戦後は京都大学支那文学科に入学するが、一年で中退し炭鉱夫に身を投じ、地の底からの報告『追われゆく坑夫たち』『地の底の笑い話』(二冊とも岩波新書)などを書いた。
 
私は『朝日ジャーナル』編集部にいた頃、取材も兼ね何度も上野に会っている。一緒に筑豊を回ったこともある。斗酒も辞せぬ酒豪でありながら、酒に飲まれず、端然として杯を傾ける上野の姿に、私は殉教者の陰を感じた。京大を中退したことは知っていたが、被爆者であることは知らなかった。上野は生涯、建国大学について多くを語らなかったという》

この上野英信や、さきに見た姜英勲さんらの青春を吸引し、のちに韓国大統領となってノーベル平和賞を受賞する金大中さんも若き日に憧れた建国大学とは何だったのか。そもそも「満州国」はいま、どう評価されるべきなのか。

■「王道楽土」と「五族協和」の欺瞞
よすがに、山室信一著『キメラ 満洲国の肖像』(中公新書)を読み返してみた。山室信一先生には何度か直接お会いしたことがある。講演も聴いている。この本は「満州国」の肖像をギリシャ神話の怪物キメラに見立て、膨大な史料・文献・引用を駆使し分析した濃密な本である。私なりの読み方でかいつまめば、次のようなことが書かれている。
 
▽満州国は「王道楽土」をうたったが、関東軍の武力で生まれた国家が、覇道でなく王道を建国理念にしたこと自体、大いなるアイロニーだった。

▽「五族協和」を唱えたが、その実態は徹底した差別社会だった。一等日本人、二等朝鮮人、三等漢・満人。食糧配給は日本人には白米、朝鮮人は白米とコーリャン、中国人はコーリャンだけ。給料にも民族によって差をつけた。

▽満州国での歴史的体験は、日本人が初めて大規模にかかわった多民族社会形成の試みだった。しかし、内実はといえば、異質なものの共存ではなく、同質性へ服従をもって協和の達成としたのだった。

▽日本の満蒙開拓移民らに提供された満洲の「新天地」とは、中国人、朝鮮人らが数十年にわたって切り開いた土地だった。日本人によって追い立てられた彼らにとってそれは「怨恨の土地」にほかならなかったのである。

▽満州国には、法的には実は一人の満州国民もいなかった。国籍法が制定されることがなかったからである。その最大の原因は、「民族協和」を理想としながらも日本国籍を満州国籍に移すことを嫌った在満日本人の心の中にあった。

▽侵略という事態のもとでは、いかに崇高で卓越した民族であれ、民族協和を実現することはできない。それができる民族なら、そもそも他民族を侵略し、自らの夢を強制したりはしないはずである。

■本質見抜いた学生
「民族協和」が掛け声だけの差別社会にあって、建国大学にはそれでも理想を追い求めようとする姿勢がなかったわけではない。満州国にあって建国大学と並ぶ、武の面でのもう一つのエリート養成所、満州陸軍軍官学校でも服装や食事の面で差別があったが、建国大学だけは日系学生の主唱で初めから全学生平等に、米とコーリャンの混食だったという。

しかし、もちろん、このエリート集団、建国大学の学生たちが満州国の本質を見抜けなかったはずがない。『キメラ』で山室先生は、建国大学出身の湯治万蔵氏が遺した『建国大学年表』で記した次のようなエピソードを紹介している。

日本降伏直後の1945817日、建国大学助教授、西元宗助のもとに朝鮮民族と中国人の学生が別れの挨拶のために訪れて、次のようなことを話したという。

▽朝鮮民族学生
われわれ建国大学の朝鮮系学生のほとんどが民族独立運動の結社に入っていました。朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、両民族は真に提携ができるのです。わたしは祖国の独立と再建のために朝鮮に帰ります。

▽中国人学生
東方遥拝ということが毎朝、建大で行われました。あのとき、われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は「要敗」、つまり、必ず負けるようにと祈っていました。それから黙祷という号令。われわれはそれを、帝国主義日本を打倒するために刀を磨け、という「磨刀」の合図と受け取っていました。中国語で黙祷と磨刀とは、遥拝と要敗と同様、ほとんど同じ発音なのです。先生たちの善意がどうであれ、…満州国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権以外のなにものでもなかったことは、あきらかな事実でした。

■失敗から学ぶこと
山室先生が著書のタイトルにとったギリシャ神話の怪物キメラは、頭が獅子、胴が羊、尾が龍なのだという。それを満州国に見立て―つまり、獅子の頭部を関東軍、羊の胴体を天皇制国家、尾っぽの龍を中国皇帝および近代中国に比して、その変態と滅亡の過程を描いたのだった。

中国東北の地で、もっともらしいスローガンにあわせて産声を上げたキメラは、しだいに頭部と胴体だけを肥大化させて尾を切り捨てていった。皇帝自身が天照大神と天皇に帰依して日本そのものと合一し、ついには内部からも壊死していったのだった。

あの時代、「満州」という歴史の大きな渦に巻き込まれ、あるいは巻き込まれそうになったのは、若き日の上野英信や姜英勲さん、金大中さんだけでなかったことは言うまでもない。いや、若者に限らず、多くのおとなたちが、むしろ率先してその渦に向かって走っていったのである。

すでに紹介したように小林慶二さんは、『観光コースでない「満州」』のあとがきで次のように書いていた。

《この本を書きながら、なぜ日本が破滅の道を辿ったかを、何回も考えた。マスコミの責任も大きい。日露戦争が、世界中を駆け回って集めた借金で武器を買い、ようやく勝った戦争であることを正確に国民に知らせておけば、その後の軍部の独走は防げたのではないか。…》

いま、日本で、「侵略という定義については、学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと…」(20134月の国会答弁)と公言してきた首相の長期政権が続いていこうとしている。そんななか、はっきりと実感できることがある。国家と国民の関係がこの10年ほどの間に大きく変わってしまったということだ。国家主義の台頭である。

いま、マスメディアの萎縮ぶりを見るにつけても、日本が過去の轍を踏まないとだれが言い切れるのか。今回の満州旅行で私が考えたのも小林さんと同じようなことだった。
 

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