2016年8月12日金曜日

「満州」への旅④――金大中さんの憧れと、「北帰行」

満州建国大学とはどのようなものであり、その時代を生きた人たちに実際、どう受け止められていたのか。私がそのようなことに関心を持つようになったのには、それなりの理由がある。6年ほど前、韓国の元大統領、金大中さん(19242009)の自伝を翻訳する作業に取り組んでいて、次のような記述に出合ったのである。

■金大中さんも建国大学を志望
《(木浦商業学校)三年の時、進学クラスに移った。もちろん大学に行くためだった。満州の建国大学を考えていた。当時すでに朝鮮半島をはじめ周辺情勢は混迷を極めていた。少し広いところへ行って答えを探したかった。建国大学は授業料はもちろん、寝食まで無料だった。しかしその年暮れの一九四一年一二月、日本はとうとう米国と戦争を始めた。将来が見通せず、現実はただ暗かった。戦争で、満州へ行くこともままならず、聞こえてくるのは憂鬱な話ばかりだった。それで、勉強も嫌になった。

進学の夢は破れたが、建国大学へ行かなかったのはラッキーだったと思う。満州へ行っていたら解放後の三八線の分断で南の地を踏めなかったかもしれない。「人間万事塞翁が馬」だった》=波佐場清/康宗憲訳『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ 民主化への道』(岩波書店)
 

韓国の民主化、朝鮮半島分断以来初の南北首脳会談、そしてノーベル平和賞受賞で歴史に名を刻んだ、あの大統領17歳の頃の追憶である。金大中少年の祖国は当時、日本の植民地支配下にあったことは改めて言うまでもない。その朝鮮半島西南端の港町・木浦からさらに40キロほど西南に離れた小島で生を受けた金大中さんは島を出て当時、名門で知られた木浦商業学校に進んでいた。首席で入学し、初め「就職クラス」にいたのだが、将来に大きく夢を羽ばたかせる中でいったん、大学進学を決意し、目標として満洲の建国大学を考えていたというのである。

■授業料無料、「手当」も
建国大学は日本植民地下にあって将来に夢を抱く少年にとっても憧れの学府だったのである。実際、どのような大学であったのか。三浦英之著『五色の虹』は、国際基督教大学(ICU)の博士課程に在籍していた宮沢恵理子氏の研究成果を引き、次のように記述している。 

《建国大学は「満州国」における文科系最高学府として、関東軍と「満州国」政府によって一九三八年に新京市(現長春市)に創設された。「民族協和」をその建学の精神とし、日本人・朝鮮人・中国人・モンゴル人・白系ロシア人の優秀な学生を集めて共同生活の中で切磋琢磨して、将来の満州国建設の指導者たるべき人材を養成するとの教育方針に加えて、すべてが官費で賄われ全寮制で授業料免除といった軍関係の学校並みの条件から、創立当時は合格定員一五〇名に対して日本領および満州国内から約二万人以上の志願者が集まった》

金大中さんが指摘したように授業料、寝食が無料だっただけでなく、月五円の「手当」まで支給されたという。

■建国大学出身の韓国首相
私自身、建国大学のことは金大中さんの自伝に出合う前からそこそこに知っていた。新聞記者としてソウルに駐在していた時の韓国の首相の一人が、建国大学出身の姜英勲さん(19212016)だったからだ。新聞記者としてのソウル駐在は1980年代後半から90年代後半にかけて2度、都合6年にわたり、その間ちょっと数えきれないほどの首相が入れ替ったが、姜さんは私にとって最も印象深い首相の一人であった。

姜さんは元もと、いまの北の地域の出身。朝鮮半島分断後に南に渡り、激動の時代を生き抜いた。韓国で民主化が進むなか、ソウル五輪直後の88年暮れ、盧泰愚政権下で首相に抜擢された。そこで取り組んだのが南北首相会談。予備会談をへて90年秋から92年にかけ、南北の首相がソウルと平壌を行き来して会談を開いたのだが、90年中に開いた初めの3回は姜さんが韓国側の代表を務めたのだった。

当時、首相レベルの南北会談は初めてのことで、ソウルいた私たちは姜首相の一挙手一投足を懸命に追ったものである。私自身、日本人記者グループの代表とし姜首相を直近で取材したこともあるが、そのスマートな身のこなしと落ち着いた話しぶりは強く印象に残っている。

いずれにしろ、建国大学はその時、姜英勲首相の経歴として私の頭のなかにインプットされたのだった。

■窓は夜露に濡れて…
もう一つ、これよりずっと前から、私の中に建国大学が入り込んでいたことに、いつのころからか気づいていた。むかし、小林旭が歌ってヒットした、あの「北帰行」――。

窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず

私自身、すこし落ち込んだり、どこかさすらいの風情に誘われたりした時など、つい口ずさんできたこの歌の原詞に建国大学が歌い込まれていたのである。金大中自伝を翻訳する際、それについて少し調べたことがあるのだが、いま改めてネットで繰ると、たとえば、「二木紘三のうた物語」では概略、次のような説明がなされている。

原詞:旅順高等学校寮歌
作詞・作曲:宇田 博
小林旭が歌う歌詞は1番から3番までだが、原詞は1番から5番まである。
1番は両方同じだが、2番以下が異なり、建国大学は原詞の2番に「建大」という略称で歌い込まれている。原詞2番は次の通りである。

建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

ここで「建大」以外について説明すると、「一高」は旧制一高、つまり現在の東京大学教養学部の前身。「旅高」とは、旧満州の旅順(現在の大連市の一部)にあった旧制旅順高校のことである。

この歌が生まれたのは1941年。作者の宇田博は旅順高校2年生。宇田は旧制中学4年修了で一高を受験するも失敗。満州・奉天(現在の瀋陽)の親元に帰って建国大学に入るも校則違反で放校となり、当時設立されたばかりの旅順高校に入学した。

宇田はしかし、旅順高校でも校則違反で退学処分を受け、奉天の親元に帰るにあたって滞在した旅館で、「敗北と流離の思い」を5連の歌に書き上げたのが、この「北帰行」だった。友人らが涙ぐみながら口伝えで歌を覚え、歌詞を書き写したという。

宇田はその後、一高に入って東大に進み、卒業後、東京放送に入社、のちに常務になったという。詳しくは、下の「二木紘三のうた物語」を。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/01/post_3959.html

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