2016年9月26日月曜日

「満州」への旅⑪――高速鉄道

長春駅から高速鉄道で吉林に向かった。「和諧号」の2等席。出発してほどなく車窓越しに広大な平野が広がる。時折、雨が窓を打つ。車内の電光掲示板をみると、「内温23度 外温17度」の表示。快適だ。細かな点はともかくも、乗り心地など、日本の新幹線とさほどの変わりはない。

■宮尾登美子著『朱夏』
車窓越しに猛スピードで後ろへ飛び去る田畑と遠くの地平線を眺めながら、私はある物語のことを思い浮かべていた。
宮尾登美子(19262014)の小説『朱夏』のことである。舞台はたしか、このあたりだったような…。間もなく停車した「九台南」という駅名にハッとした。間違いない。九台という地名は私の頭にしっかりと刻み込まれている。

旅を終えた後、『朱夏』(新潮文庫)を読み返してみた。1985年、宮尾59歳のときの作品で、自らの若き日の「満州」体験をそのまま描いたといわれる。


 
宮尾の分身である高知出身の綾子は、日本敗戦5カ月前の1945年春、小学校教師の夫に付き従って満州に渡る。高知から入植した開拓団の子弟教育のためで、県の「出向命令」というかたちだった。綾子18歳、生後50日の長女をおぶっての旅立ちだった。以来、敗戦を挟み翌469月に引き揚げるまでの1年半、現地の「土の家」での教師仲間らとの共同生活や、ソ連軍と中国暴民に追われての難民収容所暮らしなど、極限状態の人間模様を繊細な心理描写と冷静な目で追っている。

■飲馬河
主舞台は、長春からさほど遠くない飲馬河、営城子、九台という地域。最初に住んだのは、夫が勤める小学校の所在地、飲馬河という村だった。

《飲馬河村は新京[長春]から近々一時間半余り、これは満州でいえば最高に交通至便という土地で、それに水田のほとんどない満州では珍しく、飲馬河からの引水によって既に二千町歩もの水田が作られてあった。総面積一万五千町歩というのは全部耕地であり、ということはそこに農民の先住者がいて農業を営んでいたことに他ならず、日本の移民が強引にそこに割り込んで来れば当然現地人は立ち退かなければならなかった》

4月初め、着いたばかりのその地の光景を宮尾は、次のように描写している。

《飲馬河村の風光は、視線の届く限り赤茶けた土一色であった。まだ春にはほど遠く、過酷な冬をやりすごしているためにものの芽の気配もない上に、学校も近くの住民の家もすべて土ででき上がっており、わずかに屋根に葺いた何かの草だけが柔らかさを帯びているという乾き切ったこの光景を見て、綾子は咽喉もとに固いものが詰まるような気がした》

《夕陽の沈むのを見たのは到着後三日目で、西方の地平線に巨大な太陽が朱いろに燃えながらずしんずしんとまるで地響きをたてるように落ちてゆき、そしてみるみるうちに球形が半円になり櫛形になって、あっとおもう間もなく奈落の向こうに消えていった。内地の落日はゆるやかでいつまでも夕闇にたゆたっているが、ここでは陽足極めて早く、落ちた途端に濃い闇がただちに下りて来る。闇とともに寒さもひしひしと迫ってくるなかで、綾子は初めて見た満州の夕陽の荘厳さに打たれ、しばらくその場を動くこともできなかった》

■一瞬の春
やがて、「大陸名物の黄塵の季節」が過ぎ、5月初め、ここにも春がやってくる。

《たしか昨日の朝までは土一色だった野は、わずか一夜のうちに天から五彩の織物を降らせたように紅、赤、朱、黄、緑と鮮やかな色をいちめん繰りひろげ、折からのさんさんたる朝陽にめらめらと秀明な炎のかげろうを燃やしている。足もとを仔細に見ればれんげ、たんぽぽ、すみれ、おきなぐさ、すずらん、その他名も知らぬ可憐な小花がせいいっぱいに咲き競っていて、文字通り百花繚乱、息づまるような香が立っており、その上を満州あげはという大きな蝶が無数に遊んでいるのであった》

北満州の春は一瞬のうちに終わる。

《替って野は緑一色の夏景色があらわれる。野に立って眺めると緑にもさまざまあり、昨日まで花をつけていた背の低い雑草類は、浅緑だが、ところどころに見える、こんもりとした低い木や、天に届く楊柳は既に濃緑で、それが日に日に色を増してくるのがはっきりと判る》

私が高速鉄道の車窓越しにその辺りの光景を見た6月中旬といえば、たぶん、そんな季節をすこしばかり過ぎたころだったのだろう。


■飲馬河を渡る?
いま、地図やネットで確認してみると、長春からいったん北西に延びて吉林方面へ向かう在来線にたしかに飲馬河、九台、営城子という駅が連なっている。営城子は、綾子が荒くれのソ連兵に怯え、ごみ捨て場を漁る飢餓のなかで越冬した難民収容所があったところだ。九台は、旧関東軍のバラック兵舎で日本への引き揚げを待つ間、夫が国共内戦に巻き込まれ危うく難を逃れた場所である。

今回、私たちが乗った長春―吉林間の高速鉄道は在来線より南寄りのコースで新たに敷設されたようで、5年前に開業したのだという。さらに、これはネットで調べていて気づいたのだが、高速鉄道は長春を出てすぐに飲馬河という川をまたいで走っているようだ。そんな意識がまったくなかった私が、そのことに気づくはずもなかったのは当然だが、いま考えると惜しいことをしたものである。

■鄧小平の謙虚さ
快適に走る高速鉄道の車内で、いま一つ思い出したことがある。かつての中国の最高指導者、鄧小平のことである。197810月、日中平和友好条約の批准書交換で日本を公式訪問した鄧小平は東京―京都間で新幹線に乗り、その感想を「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」と述べた。

当時、テレビニュースに映し出された、そのときの率直な語りようと無邪気とさえいえる表情――、その残像が私の頭の中でしばしば反復されてきた。鄧小平はこの訪日時、「まず必要なのは、我々が遅れていることを認めることだ。遅れていることを素直に認めれば、希望が生まれる。…今回日本を訪れたのも、日本に教えを請うためだ」とも語っていた。(鄧小平語録は、2008123日『人民網 日本語版』より引用)

中国が改革開放政策を決定したのはその年の暮れだった。以来、今日に至るその後の中国発展の基礎は、鄧小平のこの率直さと謙虚さによって築かれたのだと私は思う。

そんなことを思いながら、車内で周囲の乗客の様子をうかがってみる。日本の新幹線に比べると、やや、よそ行き気味の顔が多いように見える。考えてみると、そうなのかもしれない。日本で、東京―新大阪間の新幹線が開業したのは196410月、「団塊」のはしくれの私が高校生のときだった。

北陸の地方都市で高校時代を送ったこともあり、新幹線に乗るのは開業からだいぶたってからだった。たぶん、大学時代だったと思うが、初めのうちはけっこう緊張していたものである。中国の乗客たちもあるいはそのようなことなのかもしれない。

あっという間に40分。私たちはもう、吉林に着いていた。『観光コースでない「満州」』で小林慶二さんは「長春から吉林まで快速列車で約二時間の旅だった」と書いている。中国はここでも大きく変わってきている。
 



2016年9月20日火曜日

「満州」への旅⑩――「お城」

満映撮影所跡の博物館と満州建国大学で時間を費やし、時計を見ると、とうにお昼の時間が過ぎていた。悪いことに空模様がおかしくなり、雨も降り出した。私たちは遅い昼食をとりながら雨が止むのを待った。

ここ中国東北部には梅雨はないが、上海あたりに梅雨前線がかかる6月中旬のこの時期、夕立はよくあるという。天気図を見ると、中国東北部と沿海州付近に低気圧ができていた。

昼食をすませても雨は止まない。しばらく車の中で待ってみたが、雨脚は強まるばかりだ。やむなく、私たちは車窓越しの市内見物をすることにした。

■広い道路と緑の街
前日、長春に着いた時から感じていたことだが、この街はともかく道路が広く、緑も多い。街路樹ではマツやヤナギの類が目立つ。中国といえば、このところ、ついPM2.5や黄砂を連想してしまうが、少なくとも、私たちが長春滞在中に吸った空気は決して悪くはなかった。

この街、吉林省の省都の長春は研究学園都市として知られ、中国最大規模の吉林大学をはじめ多くの国立大学や研究機関が集まっている。都市圏人口750万。自動車工業の拠点でもある。

歴史をひも解くと、長春は鉄道の拠点として発展してきた。日清戦争後の三国干渉(1895年)で日本の遼東半島領有を阻止したロシアは、見返りとして清国から東清鉄道の敷設権を獲得。満州を横断する本線とともにハルビン―旅順・大連間に支線(南満州鉄道)をのばした。長春はその支線沿線にあり、ロシアは一帯に広大な付属地を確保していった。

そこに日本が割り込んだ。日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約(1905年)でロシアから長春以南の鉄道を譲り受け、満鉄が中心になって長春の市街地づくりに着手。日本にとってそこは、ロシアとの間で鉄道権益と満州の覇権を争う重要拠点となった。

大陸侵略を進めた日本はその後、満州事変をへて1932年、ここを満州国の首都、新京と定め、独自の構想に基づいて本格的な首都づくりにかかった。

■日満折衷
38年、満映に入社した山口淑子は当時の新京の様子を、前回紹介した藤原作弥との共著『李香蘭 私が半生』新潮文庫)のなかで、次のように書いている。

《まったくの人工都市。ハルビン、奉天[瀋陽]、大連など旧満州の大都市のほとんどが帝政ロシヤによる設計・建設で、ヨーロッパ風市街の面影を残しているのに対し、新京は安東[丹東]などとともに、満鉄が奈良、京都など日本の古都の市街を大陸風にアレンジして再現した日満折衷の都市様式だった》

《縦の通りは、京都風に一条、二条、三条と並び、横は和泉町、露月町と「イロハ順」、さらに「ヒフミ順」の日出町、富士町。「アイウエオ順」の曙町、入船町と命名された。

私が満映に入社したばかりのころは、新京の街全体が大きな公園の感じで、大通りを過ぎると郊外はまだ原野だった。しかし中心部は、ちょうど国都建設一期五カ年計画が終了したところで、大同広場(現・人民広場)周辺には主要政府機関の建物が出そろい、ようやく首都らしい風景ができあがりつつあった》

■旧官庁の建物群
長春の街は、満州国時代の都市基盤をそのまま引き継いで発展させてきた。車で市内を回ってみると、中央分離帯や側道を贅沢にとった片側23車線の道路が縦横に走り、あちこちに公園とおぼしき緑地が見えてくる。

満州国時代の官庁街、新民大街に入ると、旧国務院の建物が見えてきた。日本の国会議事堂とどこか似ている。「満州国の中枢神経」といわれた総務庁が入っていた建物だ。そのトップ総務長官は、官制上は国務総理(現地中国人)を補佐する機関とされたが、事実上、満州経営の実権を握っていた。思い浮かぶのは元首相、岸信介(18961987)のことである。

岸は3610月、商工省工務局長から満州国実業部総務司長に転出。翌377月、総務庁次長に昇格。以後3910月にこの地を離れるまで、大蔵省出身の総務長官星野直樹に次ぐ満州国最高首脳の一人として辣腕を振るった。満州国では、「主権者」溥儀の権限はなきに等しく、行政権をもつ国務院は事実上、岸ら日本のエリート官僚に支配されていた。(原彬久著『岸信介―権勢の政治家―』岩波新書)

ほかに、旧満州国の軍事部、経済部、交通部、司法部といった建物がこの通り沿いに並んでいる。鉄筋コンクリート造りの洋式建築に和風や中国風の屋根を載せた和漢洋折衷の「帝冠様式」といわれる建物群だ。

■「お城」
車で回っている間も雨脚は衰えない。翌日に控えた吉林大学での学術セミナーの準備もある。私たちは涙をのんで、この日のフィールドワークを打ち切った。

学術セミナーを挟んで旅行4日目の朝、私たちは長春を発って吉林市に向かうことになっていた。その長春出発の朝、私には最後に一カ所、どうしてもこの目で確かめておきたい場所があった。

満州国時代、「お城」といわれていたという元関東軍司令部の建物である。幸い、降り続いていた雨も明け方には上がっていた。私たちはホテルをチェックアウトし、タクシーでそこに寄ってから高速鉄道の長春駅へ向かうことにした。

長春駅から真っすぐ南にのびる人民大街、満州国時代には「大同大街」といわれたメーンストリートを逆方向、つまり南から長春駅に向けて走っていくと、左手にその建物は見えてきた。こんもりと茂ったマツ林の上にそびえたつのは、まさに天守閣そのものである。

車を回してその正面入り口に止めてもらい、カメラを天守閣に向けると、そばにいた守衛が飛び出てきて何やらわめいている。ここで車を止めるなと言っているのか、写真を撮ってはいけないといっているのか……。

ともかく、鉄製の扉の横で素早くシャッターだけを切ってその場を離れた。入り口の右側の門柱には、白地に赤い文字で「中国共産党吉林省委員会」と書いた門札がかかっていた。

■関東軍司令部と中国共産党
関東軍は、日露戦争後に満州に置かれた関東都督府が1919年関東庁に改組された際、その陸軍部が独立してできた。当初、旅順に司令部を置いていたが、その後、満州事変を策動、満州国ができると1934年、首都・新京に移ってきた。「お城」はその時に新築された。

以後、日本の敗戦に至るまで、ここが関東軍の拠点となった。小磯国昭、板垣征四郎、東条英機、石原莞爾、服部卓四郎、辻政信……。そんな軍人たちがここを拠点に権勢をふるい、作戦を練り、そして関東軍は満州国もろとも滅んでいったのである。

かつて関東軍司令部、いま、共産党委員会。性格こそ違え、いずれも最高権力機関である。そう考えると、この取り合わせはなんとも奇妙なようにも思えてくる。

■「中国人は実利的」
この「お城」をはじめ、旧満州国の支配機構の建物群を見ていて私は韓国でのことを思い起こしていた。20年ほど前の金泳三大統領の時代だった。ソウルの中心部にあった、かつての朝鮮総督府の建物をめぐって「屈辱の歴史の象徴だ」と撤去論が持ち上がった。

解放後もずっと政府庁舎や博物館として使ってきていた。しかし元もと、朝鮮王朝の宮殿の一部を取り壊し、王宮の前に立ちはだかるように建てられていたこともあり、王宮の復元も構想して大統領の決断で撤去した。日本の植民地支配からの解放50年に当たった1995年のことだった。

韓国人の気持ちはよく分かるような気がする。そんな韓国と中国は違うのだろうか。吉林大学での今回のセミナーには韓国からの研究者も参加していた。そのうちの旧知の一人に率直なところを聞くと、「うーん…」とうなった後、微笑を浮かべながら次のように答えてくれた。

「中国人は実利的だからね。われわれ韓国人とはちょっと違うのかもしれない…」

『五色の虹』の中で三浦英之氏が、満州建国大学で日本人、韓国人らと寝食を共にしながら学んだ一人の老中国人が体験に基づいて語った次のような言葉を紹介していることを思い出した。

「中国人は利で働く、朝鮮人は情で働く、日本人は義で働く」

朝鮮総督府は歴史とプライドのある王宮が押しのけられたのに対し、長春の街は原野を切り開いて造成された。そんな違いも考えると一概には言えないと思いつつも、一方で、老中国人の言葉に、なるほど、思ってみたりもする。

長春には心残りが多かった。満州国皇帝溥儀の宮殿跡「偽皇宮博物館」を見ることができなかった。ほかにも、韓国の元大統領朴正煕(191779)が学んだ満州陸軍軍官学校跡や、同崔圭夏(19192006)が学んだ大同学院跡……。欲を言えばきりがないが、時間が許さず、次の機会を待つほかない。後ろ髪を引かれる思いで、私は長春駅に向かった。

2016年9月8日木曜日

「満州」への旅⑨――李香蘭

今回、満映について少しばかり調べているうちに、李香蘭について、私はほとんど何も知らないことに改めて気が付いた。そこで今回の旅行の後、遅ればせながら山口淑子・藤原作弥著『李香蘭 私の半生』(新潮文庫)を初めて読んでみた。


満映時代のことが詳しく書かれている。私にとって少し意外に思えたことの一つは、彼女の目に映った甘粕正彦像である。次のようなことが書かれている。

■照れ屋
▽甘粕といえば、照れ笑いを思い出すほどの照れ屋だった。さまざまな側面をあわせもつ人物でもあった。大酒豪で、一日一本はウイスキーをあけた。一日の仕事が終わると必ずウイスキーをあおり、その日のことを忘れ、ついでに、さまざまな過去も忘れようとしているかのようだった。酩酊のおかげで余生のバランスを保っていたように思われてならない。

▽甘粕は理事長就任後2週間で人事を刷新し、給与など職員の待遇を他の国策会社並みに改善するよう命じた。「李香蘭の月給は250円だが、李明[訳注:李香蘭と同僚の中国人スター女優]の月給45円はあまりにも差がありすぎる。李明は200円程度にしなさい。下っ端の俳優たちは18円。これではどうして食えますか。少なくとも今の李明の45円の線まで引き上げなさい」。


元満映の建物。甘粕は、ここの理事長室で自決した 

▽新京市長公邸での日満要人が集まった宴会で満映の女優たちがお酌をさせられた。甘粕はこれに憤慨し、「女優は芸者ではない。芸術家だ。もう一度、女優たちを主賓にした宴会を開いてねぎらってくれ」と市長に要求し、実現させた。……甘粕からはしだいに「テロリスト」のイメージが薄れていき、社員の中にはこの寡黙で小柄な元軍人の信奉者がふえてきた。それだけではない。大杉栄らは軍部の別の筋に殺され、甘粕大尉はその罪を一人で引っかぶったという無罪説さえ根強くあった。
 
■金日成も見ていた李香蘭
ほかにも意外だったのは、あの北朝鮮建国の祖、金日成が、抗日パルチザンの戦いのなかで李香蘭の映画を見ていたということだ。『李香蘭 私の半生』は次のように書いている。

《北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪れたとき、金日成主席からは知己のように握手を求められ、「抗日ゲリラ隊が立てこもっていた中国吉林省のアジトであなたの映画をみたよ」と言われた》

19757月、自民党参院議員だった山口淑子が自民党訪朝団の一員として平壌を訪れたときのことのようだ。のちに、2007523日付読売新聞が続き物「時代の証言者」のなかで田村元(元衆院議長/19242014)の回想として伝えたところでは、この訪朝団は田村を団長、伊藤正義(元官房長官)を副団長に、メンバーとして石井一(元自治相)、山口淑子らが同行。そこでは次のような「楽しい席」もあったという。

《宴たけなわになって、金日成が李香蘭に「何か歌ってください」と言うんだ。李香蘭が「昔、私が歌った歌は社会主義に反するような歌ばかりですよ。それでもいいですか」と聞くと、金日成は「いいんだ。実は昔、夜、変装してあんたの映画を見に行ったこともあるんだ」なんて言う。李香蘭が「蘇州夜曲」などを歌うと、金日成が喜んで、抱きつくようにしてきた》

「蘇州夜曲」など、と複数形になっているが、ほかに何を歌ったのだろうか。金日成は李香蘭のどの作品を見ていたのだろうか。

■隻腕?
『観光コースでない「満州」』の小林慶二さん、『五色の虹』の三浦英之氏は共に、生前の山口淑子氏と直接会っており、そのときのエピソードも紹介してもいる。おもしろかったのは、三浦氏の次のような述懐である。

▽私は雑談のなかで甘粕にはなぜ片腕がなかったのかと山口に尋ねた。「甘粕さんにはちゃんと両腕があったと思うけど…」と目を丸くして驚く山口に、私は「確か甘粕には片腕がなかったはずだが…」と恥ずかしげもなく質問を重ねた。

▽もちろん、間違っていたのは私の方だった。ベルナルド・ベルトルッチが監督した映画『ラストエンペラー』で、音楽家の坂本龍一が甘粕の役を片腕のない人物として演じていたため、実際の甘粕も片腕がなかったのだと思い込んでしまっていた。「片腕」の甘粕は、彼の異常性を強調するための演出だった。

後日、そんな話を山口に告げると、山口は次のように語ったという。

「今では色々なことが言われているけれど、私にとって甘粕さんはみなさんが思っているような悪い人のようには思えなかったわ。うまく表現することができないけれど、深い闇を抱えていたのね。きっと誰もが……」

■ラストエンペラー
『ラストエンペラー』は、1987年に公開されたイタリア、中国、英国の合作映画で、私も見ている。しかし、甘粕が隻腕として描かれていたとはまったく気が付かなかった。そこで、近くの「TSUTAYA/ツタヤ」でDVDを借りてきていま一度、見直してみた。


なるほど、確かに、隻腕だ。右腕がない。そのことを強調するアングルもある。これで気づかなかったとは今さらながら情けない。

 
■ピストル自殺?
エンターテインメント作品ではこうした演出は当然、あり得るのだろう。しかし、この作品の場合、甘粕をあえて「隻腕」として描く必要があっただろうか。映画に門外漢の私には、あれこれ言う資格はないが、気になったことといえば、もう一つ。映画では甘粕は最期、ピストル自殺で果てていた。これは実際には、服毒自殺ではなかったのか。

山室信一先生の『キメラ』(中公新書)はもちろん、前回紹介したように長影旧址博物館の説明も「青酸カリで服毒自殺」となっていた。甘粕にはピストル自殺がふさわしい、ということでそのように演出したのか、と思ったが、念のために手元の電子辞書で「ブリタニカ国際大百科事典」を引いてみると、「満州でピストル自殺」となっている。ピストル自殺説もあるのだろうか。

今回、『ラストエンペラー』を見直して改めて思ったのは、この映画が放つメッセージの強烈さだ。歴史に翻弄される溥儀という一個人の悲哀はもとより、日本の侵略と旧満州国の欺瞞の本質を鋭く突いている。いま、この日本で、このような映画が作れるかどうか。

2016年9月2日金曜日

「満州」への旅⑧――長影旧址博物館

満州建国大学の建物を探した日の午前、私たちは旧満州国の国策映画社として知られた満州映画協会(満映)の撮影所跡も訪ねた。関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者大杉栄らを殺害したあの甘粕正彦(18911945)が理事長として幅を利かせ、女優李香蘭(山口淑子/19202014)の活動拠点となった場所である。

『観光コースでない「満州」』の小林慶二さんが訪れた当時ここはまだ、満映を引き継いだ長春映画製作所(長影)の撮影所として使われていた。その後改修工事がなされ、2年前に新たに博物館として生まれ変わった。今は、「観光コースでない」どころか、れっきとした長春観光の目玉の一つになっているようだ。

■長影旧址博物館
敷地に入ると、大きな毛沢東像が目に入り、博物館は、そのすぐ向こうにあった。3階建て、屋上部分に「長影旧址博物館」という赤文字の看板を掲げている。案内板を見ると、博物館のほかにコンサートホールなども設けられているようだ。すぐ横に設けられた別棟のチケット売り場で入場券を買い求めた。60歳以上割引の「老年票」で60元。一般は120元のようだ。



博物館の中は暗くしてあった。入り口から続く廊下の中央部付近は強化ガラスで覆い、ライトアップで下の床面が透けて見えるようにしてある。満映時代からの建物を改修するに当たり、元の床面を保存展示するために工夫を凝らしたようだ。

 
ガラス越しにみえる床面には、小さなカラータイルが敷き詰められ、全体として、白地に青色の竜が浮かび上がる絵柄になっている。満映時代、ここに集った映画人らの粋な趣といったようなものが伝わってくる。


■満映の時代
満映は日中戦争が始まった直後の19378月、満州国と満鉄が半額ずつを出資して設立した。展示は、その満映の時代から始まっていた。
私の目に真っ先に飛び込んできたのは、大きく掲げられた2人の人物の顔写真だ。満映初代理事長の金璧東(18971940)と、その後を継いだ甘粕正彦である。


金璧東は、清朝最後の皇帝であり、日本が「満州国皇帝」として担ぎだした「ラストエンペラー」溥儀の親戚にあたり、「東洋のマタハリ」といわれた川島芳子の兄である。理事長といっても大連在住の非常勤で、名ばかりの飾り物に過ぎなかったようだ。

■甘粕正彦
満映運営に辣腕をふるったのは193911月、2代目理事長に就任した甘粕正彦だった。満州国で隠然たる力を持ち、「満州国は、昼は関東軍司令部が支配し、夜は甘粕が支配する」とまで言われた人物である。

陸軍士官学校出身の元憲兵大尉。19239月、麹町憲兵分隊長として、大杉栄とその妻で婦人運動家だった伊藤野枝、甥でまだ6歳の橘宗一の3人を絞殺。軍法会議で懲役10年の判決を受けたものの、恩赦によってわずか3年で出所。陸軍機密費で、当時日本では憧れる人が多かったフランスに留学。29年に帰国した後、中国に渡り、満州事変などの裏で各種謀略・工作活動に携わり、満州国建設に深く関与した。

甘粕は、こうした「功績」によって満州国の警察組織のトップや、協和会中央本部総務部長をへて満映理事長に就任したのだった。

この2人の理事長の顔写真の横に、衝撃的な写真も展示されていた。甘粕の死に顔である。

添えられた写真説明には「『満映』は、映画という手段で中国人民の思想と魂に対し、8年に及ぶ政治戦と精神、文化戦をおこなった。1945820日午前555分、満映理事長の甘粕正彦は青酸カリで服毒自殺。満映は解体した」とあった。

甘粕は、日本の敗戦に伴うソ連軍の長春進駐を前に満映の理事長室、つまり、私がいま見ている、この建物の中で自らの命を絶ったのだった。

■展示がない李香蘭
満映時代の展示では、ほかに当時発行されていたとみられる雑誌『満洲映画』が並べられているのが目についた。

女優とみられる人物らが表紙を飾っている。当然のことながらここで、ある人物のことが気になった。あの満映の看板スター李香蘭のことである。見渡した限り、その李香蘭についての展示はどうやら、ないようだ。

李香蘭は、1920年、中国東北部、いまの遼寧省の省都瀋陽の近郊で、日本人の父母の間に生まれた。父母に付けられた名前は山口淑子。父親は中国語に堪能で、満鉄の関係者に中国語を教えていた。淑子は、そんな父の友人である中国人の名目上の養子となり、「李香蘭」という中国名をもらった。

その後、淑子は18歳で満映専属の「中国人女優・李香蘭」としてデビュー。中国人らの間でも大変な人気を呼んだ。その李香蘭が、ここの展示には出てきていないのである。

当然なのかもしれない。満映では、日本人男性をひたすら慕う中国人娘の役を演じるなど、日本人に都合がよく、中国を冒涜するように描いた作品も多かった。日本の敗戦に際しては「中国人として祖国を裏切った漢奸」として中華民国の軍事裁判にかけられた。結局、日本人であることが証明され、「漢奸の対象にならない」として国外追放で日本に帰国できたが、中国にとって「好ましからざる人物」であったことは間違いない。

■長影
満州国崩壊後、満映は中国共産党に接収され、194510月、「東北電影公司」となった。満映の日本人技術者らの多くもそこに引き継がれたといわれる。その後、国共内戦が始まると長春にも国民党軍が進軍。東北電影公司は、いまの黒竜江省鶴崗に避難し、そこで映画の製作を続けた。

485月、反転攻勢に出た中国共産党軍は長春を包囲して兵糧攻めにし、10月、国民党軍は降伏。旧満映の建物などは再び中国共産党が接収し、避難先から戻ってきた。55年、長春映画製作所(長影)と改名。以来、中国における映画製作の一大拠点として発展し、数々の作品を中国社会に送り出してきた。

長影旧址博物館は、そうした中国の映画史を一目で概観できるよう、工夫を凝らしてあるようだ。

毛沢東や胡錦濤氏ら、中国の最高首脳クラスがここを訪れたときの写真も展示してあった。