2016年11月3日木曜日

「満州」への旅⑰――国境の町

龍井一帯を回った後、図們市に向かった。豆満江(中国名・図們江)を挟んで北朝鮮と向かい合い、対岸の北朝鮮内部をうかがうことができる町で、一つの観光スポットになっている。

■大洪水被害
そこでのことをこのシリーズで報告しようと思っていた矢先、111日付の朝日新聞朝刊を見て驚いてしまった。国際面に、この場所で私たちが見たものとはまったく違う光景が紹介されているではないか。この夏、この辺りを襲った大洪水で一帯が壊滅的な被害を受け、様相が変わってしまっているというのである。

図們対岸の北朝鮮側は、咸鏡北道の南陽という町である。朝日の紙面には、その町を一望できる図們の丘の上から撮った被災後の写真が載せられている。私たちが図們を訪れたのは620日だったが、その際に私も、朝日掲載の写真を撮った平賀拓哉記者とまったく同じスポット、同じアングルでシャッターを切っていた。

私の写真と、朝日の写真を比べてみる。最初の1枚が私の撮った写真で、あとの3枚は朝日新聞の紙面からである。



朝鮮中央通信など平壌のメディアによると、この夏の台風10号と低気圧の影響で、8月末から9月初めにかけ、豆満江流域で観測史上最大の洪水が発生。それに伴う死者・行方不明者は数百人にのぼり、68000余人が避難した。914日時点の国連の報告では、138人の死亡が確認され、行方不明者は約400人にのぼっているという。
この事態に北朝鮮はいま、国を挙げての復旧作業に取り組んでいる。5月の第7回党大会を受けて6月から始めた生産・建設拡大キャンペーン「200日戦闘」のプログラムに急遽、この辺りの復興を優先的に組み込み、軍を動員して人海戦術を展開しているのだ。

詳細は朝日の紙面に譲るが、図們の対岸の南陽では5階建て前後のアパート建設が夜を日に継いで進められており、完成すれば、付近の眺めはこれまでとは相当変わったものになりそうだ。

■「金日成バッジ」
ここで紹介している写真の下部付近を見ると斜め横に1本の橋がのびている。これは中朝間を結ぶ鉄道橋だが、この少し下流に道路橋の図們国境大橋がある。6月、私たちがこの地を訪れた際には、主に、この道路橋付近を見た。豆満江をまたいで対岸の南陽を結ぶその橋は、長さ500メートル、幅約6メートル。たもとに「194111月竣工」と刻んだ橋名板があり、日本がこの辺りを支配していた時代に造られたものと分かる。

橋の手前に展望台があり、双眼鏡が備え付けられている。のぞいてみると、橋の突き当りの建物に掲げられた金日成主席と金正日総書記の肖像が目に飛び込んできた。南陽の鉄道駅舎なのだそうで、階段のようなところを中学生くらいの子どもたちが飛び跳ねている様子も見える。2人の指導者の肖像の横には「栄光ある朝鮮労働党万歳」などと書かれたスローガンが掲げられているのが、木立の間から見えていた。

展望台の土産物店をのぞくと、北朝鮮の「紙幣セット」や「金日成バッジ」が並べられていた。バッジは110元。いかにも安っぽく、すぐにまがい物とわかる。その点を指摘すると、引き出しの奥から、いかにもそれらしい「本物」を持ち出してきた。一つずつ綿布で包んであり、こちらは1200元。「高い」と言ってみると、「大変な危険を冒しているのだから、それだけの価値はある」と声をひそめた。

■減った韓国人観光客
土産物店の話では、このところ観光客はあまり多くない。とくに韓国からの客が、がた減りしているようだ。

私たちがここを訪れた時期、北朝鮮をめぐる情勢はすでに相当緊迫していた。今年1月、北朝鮮が「水爆実験」とした4回目の核実験。2月、国際社会が長距離弾道ミサイル発射実験と見た「人工衛星打ち上げ」。これに対して3月、国連が北朝鮮産鉱物資源の禁輸などを盛り込んだ新しい制裁決議採択をすると、北朝鮮は反発を強め、立て続けに弾道ミサイル発射。韓国政府は年初来、韓国民に中朝国境付近に近づくな、と呼びかけていた。

■のどかさと、緊張と…
展望台を下りて橋に向かう。橋は、入場料を払うと北朝鮮側に向かって中ほど近くまで歩いて行ける。試してみると、公安関係者と思えるTシャツ、トレーナー姿の男が一人ついてきた。観光客用に朝鮮の民族衣装を貸し出す店が近くにあり、それを着て橋の中央付近で記念撮影している中国人の姿も見かけた。橋の下を、屋根がついた小さな遊覧船がくぐっていった。

しばらく見ていると、北朝鮮側から2台の大型トラックがやってきた。ゆっくり、のろのろと近づいてくる。ここにはスピードがまったくふさわしくない雰囲気がある。のどかなようで、どこかに漂う緊張感……。不思議な気持ちに誘われるなか、トラックの積み荷をそれとなく見ると、石炭だった。












■指呼の間
石炭でいえば、年初の第4回核実験のあと、国連の制裁決議で北朝鮮からの石炭輸出は原則禁止となったが、「民生目的」は対象外とされてきた。北朝鮮はその後、9月に第5回の核実験を強行したため、いま、さらなる制裁として石炭の全面禁輸も国連の場で論議されている。

こんな中で中国は、北朝鮮の核実験そのものには「断固たる反対」(中国外務省声明)を表明しながらも、制裁強化一辺倒のアプローチには反対しており、対話による解決を求めている。

10年前、中朝の国境を分ける豆満江の川沿いを源流近くまで中国側から遡ってみたことがある。当然、川幅は狭くなり、浅瀬も多い。川沿いの朝鮮族住民からは「朝鮮側と川越しに声を掛け合うこともある」という話も聞いた。まさに「指呼の間」である。

その時のことを思い起こすと、中国側の気持ちは分からないことはない。中朝の国境線は、日本海に流れ込む豆満江と黄海に注ぐ鴨緑江を中心に東西約1400キロに及ぶ。そこでは各地で国境貿易も行われている。そんなところで制裁をこれ以上強めると、どうなるというのか。

最近、国連での「核兵器禁止条約」をめぐる各国のやりとりをみていて思ったことがある。もとより、北朝鮮の核開発を擁護するものではないが、日米のように、自らの核抑止論を正当化して禁止条約に反対し、北朝鮮に一方的に核放棄を迫る姿勢にどれほどの説得力があるというのか。

北朝鮮の核問題解決には話し合いしかない。図們で思ったのも、そんなことだった。

 

2016年10月30日日曜日

「満州」への旅⑯――抵抗詩人・尹東柱


間島(かんとう)。中国吉林省の延辺朝鮮族自治州辺り一帯を朝鮮側でかつて、そう呼んだ。間島は、表音文字のハングルで「간도」(カンド)となるが、「墾島」あるいは「艮島」(いずれも「간도」)という漢字が用いられたこともあったという。

■間島/墾島/艮島
元もと清朝が封禁の地と定め、なんびとの立ち入りも認めていなかった。結果、清国と朝鮮の間を隔てる陸の島のようなかたちとなり、間島と呼ばれたようだ。そんなところへ朝鮮王朝後期、朝鮮の農民が入り込んで開墾を始めた。それで「墾島」、そしてその土地が朝鮮から見て北東、つまり艮(うしとら)の方角に当たることから「艮島」ともされたのだという。(NAVER知識百科『韓国民族文化大百科』)

というわけで、ここは19世紀後半以降、朝鮮から入植した農民によって切り開かれたのだが、この地への朝鮮人の流入、移動が本格化したのは、日本による朝鮮併合以降のことだった。1930年には一帯で、その数80万ともいわれた。
 

移住民のほとんどが日本の朝鮮統治における土地調査事業や産米増殖計画によって土地を失い、食糧を奪われて流浪、移住した人たちであったが、一方で、日本の支配に反対し独立を求めて戦う抗日運動家も少なくなかった。こうして「満州」は「「反日運動の策源地」とみなされることとなっていったのだった。(山室信一著『キメラ――満洲国の肖像』中公新書)
 

韓国民に愛される抵抗の詩人、尹東柱(191745)はこの地のそんな土壌の中から生まれてきた。

龍井市郊外の明東村出身。太平洋戦争の時期、日本に留学。同志社大学で学んでいるときに朝鮮の独立運動をしたとして治安維持法違反容疑で捕まり、福岡刑務所で服役中、27歳の若さで獄死した。

日本でも1990年代に、その作品を紹介した詩人茨木のり子さん(19262006)の文章が高校の国語の教科書に載せられたりして広く知られるようになった。

■尹東柱の生家
明東村に復元された尹東柱の生家を見に行った。私自身、10年前にもここを訪れているのだが、周囲がきれいに整備され、代表作「序詩」を刻んだ肖像や展示館が新たに建てられていた。生家の周りには韓国の団体観光客20人ほどが群がっていた。

その観光客らに聞いてみると、白頭山を中心に据えた34日、計64万ウォン(約58000円)の観光ツアーで、黒竜江省の牡丹江空港から中国に入り、バスで一帯を回っているという。生家のガイドの話では、このところ1日にバス12台、3040人ほどがここを訪れている。韓国からの観光客が中心だが、日本人もけっこういるという。

 ■曾祖父の代に間島へ
尹東柱の先祖はもともと朝鮮北部、豆満江沿いの咸鏡北道・鍾城に住んでいた。19世紀後半、曾祖父の代に間島の地に移住し、1900年に祖父がこの明東村に引っ越してきた。尹東柱の年譜の概略は次のようだ。
 
19171230日、学校教員の父の長男として出生。祖父は小地主でキリスト教会長老。
19324月、龍井のキリスト教系恩真中学入学。359月、平壌の崇実中学3年に編入。36年、同校が神社参拝拒否問題で廃校になり、故郷の光明学園中学部に編入。
19384月、ソウルの延禧専門学校(延世大学の前身)入学。4112月、卒業。 
 
19424月、東京の立教大学入学。同年10月、京都の同志社大学英文学科入学。437月、独立運動の疑いで京都下鴨警察署に逮捕される。同年12月、送検。442月、起訴。
19443月、京都地裁が治安維持法違反(独立運動)で懲役2年の判決(求刑3年)。41日、刑確定。福岡刑務所に投獄。
1945216日、福岡刑務所で死去。享年27
 
尹東柱の死は45218日、「一六ニチ トウチュウ[東柱] シボウ シタイ トリニ コイ」との電報が故郷の家に配達され、家族に知らされた。父と父のいとこが遺体を引き取りに日本に渡り、火葬した遺骨を故郷に持ち帰り埋葬。5月ごろ、家族らが「詩人尹東柱之墓」と刻んだ碑を建てた。
(伊吹郷訳『空と風と星と詩 尹東柱全詩集』=記録社発行/影書房発売=に載せられた尹東柱の弟・尹一柱作成の「尹東柱年譜」)
 
墓は、生家にほど近い、日当たりのいい丘の斜面にあった。きれいに整備され、そばにナツメの木が植えられていた。

■治安維持法違反
そもそも尹東柱は何をなし、何が問われたのか。尹東柱の死後37年目の1982年に明らかになった京都地裁の判決文(1944331日付)をいま、改めて読み直してみる。以下、その概略――。(カッコ内は判決文からの引用)
 
尹東柱は「幼少ノ頃ヨリ民族的学校教育ヲ受ケ思想的文学書等ヲ耽読」するなど、「熾烈ナル民族意識」を抱いていた。長じてからは「我朝鮮統治ノ方針ヲ目シテ朝鮮固有ノ民族文化ヲ絶滅シ朝鮮民族ノ滅亡ヲ図ルモノ」とみなし、民族解放のためには独立国家を建設するしかない、と考えるようになった。
 
「大東亜戦争」が起きると「日本ノ敗戦ヲ夢想」し、これを機に「朝鮮独立ノ野望ヲ実現シ得ヘシト妄信」して「独立意識ノ昂揚」を図り、同郷のいとこで、同時期に京都帝大に留学していた宋夢奎(やはり治安維持法違反で服役中に獄死)とインドのチャンドラ=ボースを語り、朝鮮にもいずれ同様の人物が出現するとみて「其ノ好機ヲ捉ヘ独立達成ノ為蹶起セサルヘカラサル旨激励」し合うなど、「相互独立意識ノ激発ニ努メ」た。
 
また、朝鮮内の学校における朝鮮語の授業の廃止を批判したうえに「内鮮一体政策ヲ誹謗シ朝鮮文化ノ維持朝鮮民族ノ発展ノ為ニハ独立達成ノ必須ナル」ことを友人に対して「強調」した。
 
以上のようなことは「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とした行為に当たり、「治安維持法第5條ニ該当スル」として、懲役2年が言い渡されたのだった。
戦前の治安維持法はそんな法律であり、植民地下の朝鮮の人々は、そんな状況に置かれていたのである。尹東柱の代表作をいま一度、読み返してみる。
 
 
  序詩
 
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心傷んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
 
今宵も星が風に吹き晒らされる。
(伊吹郷訳

2016年10月24日月曜日

「満州」への旅⑮――「間島」の地

旅行5日目の朝を、私たちは吉林省延辺朝鮮族自治州の州都・延吉で迎えた。天気は上々。朝方、街を歩いてみる。ここは私には10年ぶりだったが、この間に「韓国化」がまた一段と進んだ、という印象を受けた。街のところどころに韓国風のレストランが目につき、さながら韓国の地方都市にいるかのような錯覚に陥る。


実際のところ、私たちは市中心部にある朝鮮族経営の小さなホテルに宿泊したのだが、そこではKBSMBCSBSといったソウルの主要放送局のテレビ番組がリアルタイムで入っている。逆に、ここが北朝鮮と隣接し相互に深い関係を持ってきた地域というのに、平壌の放送は見られない。
韓国からの観光客らも多いようだ。私たちが宿泊したホテルの狭いフロントにも「ソウル弁」の団体客が押しかけていた。

■減っていく朝鮮族
延辺朝鮮族自治州では中国語と並んで朝鮮語が公用語になっている。役所の文書などは両言語併記だ。街の看板にもハングルがよく目につく。

とはいえ、この地域に住む朝鮮族は年々減ってきているようだ。延吉市の人口は現在約60万とされ、うち朝鮮族は統計上60%ということになっているが、実際には半分を割り込んでいるとみられるという。市の全人口は増えているといい、その分、漢族の流入が多くなっているということになる。市内でタクシーをつかまえても朝鮮語の分かる運転手にはめったに巡り合えない。

自治州全体でみても同じ傾向にある。全人口200余万のうち、朝鮮族はいま、40%を切ったとみられている。1952年にこの地域が朝鮮族自治区(55年に朝鮮族自治州に移行)になった当時は80%が朝鮮族だった。人口比率が低下してきた分、行政面などでの朝鮮族の発言力も弱まってきているようだ。

朝鮮族の「地元離れ」は近年、とくに若者に多いようだ。中国語と朝鮮語のバイリンガルという強みを生かして中国各地に進出した韓国系企業に就職したり、韓国に出稼ぎに行ってそのまま居ついてしまう人も多い。日本に来ている人もいる。自らのアイデンティティで悩む若者も少なくないようだ。

■「先駆者」
延吉で朝食をとったあと、まず、南隣の龍井市に足を延ばしてみた。龍井は早い時期から朝鮮からの入植者が住みついた土地として知られる。この辺りが朝鮮で「間島」と呼ばれた時代、この地域の政治的な中心地でもあった。日本でもよく知られる韓国の国民的詩人、尹東柱の故郷でもある。

チャーターした車で龍井に向かう。市内に入る少し手前に、ぜひ見ておきたい場所があった。延辺観光の韓国人が必ず立ち寄るスポットだ。「一松亭」といわれる。韓国人ならだれもが知っている歌曲「先駆者」の歌い出しになっている場所である。

韓国が日本の植民地であった時代、この付近は独立運動の一つの拠点だった。歌曲は、そんな独立運動を戦った人たちを称えて1930年代に作られたとされ、解放後だいぶたってから、とくに韓国の民主化運動の時代に盛んに歌われた。

それは小高い山に植わる一本の松だった。枝ぶりが立派で、遠くから眺めると、まるで東屋(あずまや)のように見え、ここを行き交う旅人たちもその趣ある姿に旅情を慰めた――。これは、諸説がある一松亭の解釈のうちの一つだ。「先駆者」はそんな一松亭を含むこの付近一帯の情景を荘重な調べとともに詩情豊かに歌い上げている。
https://www.youtube.com/watch?v=AjGjcptrZog

いま、その一松亭のすぐ近くまで立派な道路がついている。当時の松は枯れたといい、代わりに一棟のしゃれた東屋が建てられている。近年、この歌曲の由来そのものについても一部で異説も出ているようだ。

ともあれ、その一松亭からみる景色は雄大だ。やはり「先駆者」に歌い込まれた海蘭江(ヘランガン)という豆満江の支流が大地を突っ切って真っすぐに延びている。
 
目を転じると、私たちがこれから向かう龍井の市街も一望できる。

「先駆者」の調べにぴったりの荘重さがどこか漂ってくる。

 ■龍井公園
龍井市内に入ると、中心部に龍井公園があった。公園内には古びた井戸があり、顕彰碑が建っている。19世紀後半、朝鮮から豆満江を渡ってここに入植してきた人たちが初めて発見した井戸で、龍井の地名発祥の由来になったのだという。

その井戸のすぐ傍の木陰で、老人たちが車座になって何かに興じていた。覗いてみると、花札だった。こうした光景はどこかで見た記憶がある。そう、ソウルのパゴダ(タプコル)公園である。あそこでは老人たちがのんびりと碁や将棋、花札をたのしんでいるのをよく見かけた。そっくりなので朝鮮語で話しかけてみると、やはり朝鮮族の人たちだった。


ソウルでは日本と似たルールで、「アカタン」「アオタン」「サンコー」「ゴコー」といった日本語がそのまま飛び交っていた。ここではそうした言葉は通じず、ルールもかなり違うようだが、札そのものは、私たちが親しんだ任天堂のものとほぼ同じだった。札のそばに小さな硬貨が何個か散らばっていた。

■間島総領事館
市内に日本と関係の深い建物が残っていた。日本の元間島総領事館庁舎である。1926年に建てられたという。瀟洒な建物だが、どこか威厳も漂ってくる。いまは展示館になっているようだが、あいにくの休館日だった。


間島の日本総領事館――。歴史を振り返ると、日本がこの地に総領事館を設置したのには大きな意味合いがあった。

もともと、この辺りは清国と朝鮮の境界が曖昧だった。満州族の清朝は一帯を先祖ゆかりの神聖な地として立ち入りを禁じていたのだが、19世紀後半ごろから朝鮮の農民らが入植し始め、双方に領有権争いが生じた。両国で何度か話し合いが持たれたが、境界線を確定できなかった。

そんなところへ日本が乗り込んできた。1905年、日露戦争に勝った日本は韓国(1897年、朝鮮は大韓帝国と改称)に第2次日韓協約を強要して外交権を奪い、ソウルに統監府を置いた。そんな日本は間島地域について韓国領とする立場を取り、「韓国民保護」の名目でここに統監府派出所を設け、大量の日本兵を駐屯させた。

■間島協約
これに対して清国は強硬に抗議し、日本軍の撤退を求めたが、日本は「間島は韓国固有の領土」という立場を譲らなかった。それを一転させたのが、ここでの総領事館設置だった。総領事館の設置は、そこが外国の地であることを前提になされるものであることは言うまでもない。

190994日、日清間で交わされた「間島協約」である。ここで両国は「豆満江が清国と韓国の国境である」と確認し合った。つまり、間島が清国領であることを日本が認めたのである。これは日清間でなされた一つの取り引きだった。その1カ月ほど前に両国は「安奉鉄道の改築」に関する覚書を調印していたのである。

安奉鉄道とは、鴨緑江の河口に近い中国の安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)を結ぶ鉄路。覚書は、日露戦争のさなかに日本軍が清国から敷地を租借して走らせていた軽便鉄道を広軌に改築して満鉄と連結させようというものだった。それと引き換えに、日本は韓国がずっとこだわってきた間島の地を清国側に譲ったのである。

歴史を振り返ると、日本はこの後すぐに韓国を併合(1910年)。清朝も辛亥革命(1911年)で滅び、中華民国となったのだった。

■間島省
私たちが見た元間島総領事館の庁舎が建てられたのは1926年というから、総領事館の開設から17年が経っていた。この時点でおそらく、新しく建て替えられたのだろう。

当時を振り返ると、暗雲が立ち込めていた時代状況は、さらに暗転しようとしていた。1925年、日本国内では普通選挙法とセットにしたかたちで治安維持法が成立。その普通選挙法による初の衆院議員選挙が282月にあり、共産党が公然と活動を始めると、危機感を強めた田中義一内閣は検挙を断行。中国への侵略や戦争に反対する勢力は治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れられてしまった。(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫)

286月、「満州某重大事件」という名の張作霖爆殺事件。319月、満州事変。翌323月、満州国樹立が宣言され、この間島の地は、間島省としてそこに組み込まれていったのだった。

2016年10月17日月曜日

「満州」への旅⑭――関東軍の「マジノ線」

吉林駅に戻った。駅舎はどっしりした建物で、まだ新しい。

 
次の目的地は吉林省延辺朝鮮族自治州の首府、延吉市。吉林駅では少し時間の余裕があり、高速鉄道のホームで待っていると、和諧号が静かに滑り込んできた。出発時刻は午後6時過ぎだった。



■トンネル50
私たちが乗ったのは吉林―図們―琿春を結ぶ「吉図琿」高速鉄道。昨年9月に開業したばかりの新しい路線だ。ここから延吉西駅まで2時間足らずである。

日暮れが迫るなか、和諧号は東に向かってひた走る。車窓の後方に落ちていく夕日は雲間に弱々しい光を放ち、山の端をシルエットで浮かび上がらせている。私が思い描いてきた「満州の赤い夕日」とはほど遠い情景ではあるが、これはこれなりに趣深い。
車窓を流れていく一帯の風景は、「満州の広野」というイメージからはほど遠い。そう高くはないものの、長白山脈から連なる山々が次々と現れ、高速鉄道はそれらを貫いて走っていく。

列車に乗ってすぐにトンネルの多さに気づき、つれづれに任せてメモ帳に「正」の文字を書きつけ、その数を数えてみた。必ずしも正確にカウントできたわけではないが、この吉林―延吉西間で最低45個、漏れた分を考えると、あるいは50個くらいあったかもしれない。短いものが多かったが、思っていた以上に多い数だ。

■最後の防御ライン
実際、いま、高速鉄道が走るこのルートは、かつて満州国を支配した軍国日本が山岳を盾に一時、最期の防御線と考えていたラインと重なるのである。共同通信社社会部編『沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)によると、次のようだった。

太平洋戦争末期、ソ連参戦を2カ月余り後に控えた19455月、日本の大本営はそれまでの対ソ作戦方針を全面的に転換。関東軍に対し「京図線(新京[長春]―図們)以南、連京線(大連―新京)以東の要域を確保して持久を策し、大東亜戦争の遂行を有利ならしむべし」と命令した。

つまり、ソ連が参戦した場合、関東軍の主力は南満州の朝鮮国境沿いの山岳地帯に立てこもって持久戦を続け、大陸の一角を確保して本土決戦を有利にせよというのだったが、ここに出てくる「京図線」にほぼ沿ったかたちで、高速鉄道は走っている。

大本営は併せて、新京から南へ二百数十キロ離れた中朝国境にほど近い通化を持久戦の拠点として選び、要塞づくりを進めた。そのことは北部満州に入植した開拓団にはいっさい知らせていなかった。

4589日、ソ連参戦。大本営は、関東軍総司令部に「朝鮮ヲ保衛スベシ」と下達し、満州を放棄した。

開拓民らはそのまま置き去りにされた。これまでに紹介した吉林・砲台山の悲劇や宮尾登美子が『朱夏』で描いた極限状況は、こうしたなかで生じたのだった。

長春や吉林など都市部やその周辺にいた人たちはまだ、ラッキーな方だといえた。より悲惨だったのはソ連国境近くに入植していた人たちだった。ソ連軍や中国人暴徒からの過酷な逃避行を強いられ、多くの人々が命を失った。残留孤児の悲劇もここで生まれた。『沈黙のファイル』は、ソ連参戦時、満州各地に散らばっていた約155万人の民間人のうち、国境付近にいた人を中心に約176千人が帰国を果たせずに死亡した、と記している。

■「長吉図開発区」
関東軍が一時、最後の「マジノ線」として構想した、そんな山岳地帯を抱えるこの地域だが、中国各地で急速な国土開発が進むなか、ここでもいま、大きな槌音が響き始めた。2009年、国家級プロジェクトに採択された「長吉図開発開放先導区」の開発計画である。

「長吉図」とは、長春・吉林・図們江(豆満江)の意。吉林省の産業の中心地である長春市と吉林市の一部、それに延辺朝鮮族自治州の全域を合わせて一つの経済圏にまとめ、総合的な発展をはかろうという計画だ。そこでは、北朝鮮、ロシアと隣接する同自治州の琿春市を窓口に朝ロ両国経由で日本海航路を生かした国際輸送ルートを開いていこうという構想も盛り込まれている。(日本貿易振興機構『世界のビジネスニュース』)

私たちの乗った和諧号はこの構想区域を突っ切って目的地の延吉に着いた。この街を中心とする延辺朝鮮族自治州は中国のほぼ東の端に位置する。南は豆満江を隔てて北朝鮮と国境を接し、北からはロシア領がせり出してきて朝ロ両国に挟み込まれるようなかたちで中国領土は尽きる。そこから東の日本海まで最短距離で15キロ。このわずかな距離が「陸の壁」となり、同自治州の「どん詰まり感」を醸してきた。

■東の海より、高速鉄道の西
海への新しい可能性を開く「長吉図開発区」構想は、この地域の人たちに大きな夢を与えているのは間違いないが、いま、そこへ新しく西から高速鉄道が延びてきた。これによって、延吉から首都・北京までの所要時間がこれまでの14時間から一気に9時間に短縮され、東北地方の主要都市も一日旅行圏となった。

いま、北朝鮮の核ミサイル問題などで、海への道はいま一つ見通しが立ちにくい。そんな中にあっては、この地域の人たちの目も当分、東より西、海よりは陸側に向いていくのかもしれない。高速鉄道延吉西駅を降りて思ったのは、そんなことだった。